小田原 城 城主。 小田原城の歴史を簡単に!北条が残した総構が際立つ名城!

小田原城の歴史|北条氏の本拠、巨大要塞

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小田原城の歴史を紐解く 小田原城の立地 相模国(神奈川県)の西端にあり、南は相模湾、西は箱根連山、その山を隔てて駿河国(静岡県)と接している。 また、東国と西国を結ぶ主要な幹線道であった東海道に沿い、中世には小田原関所の存在も確認されるなど、交通の要衝でもあった。 この海と山を天然の要害とし、交通の要衝でもある場所に、は建てられている。 大森氏の時代 小田原城の創建年代は明らかになっていないが、15世紀中頃に大森氏によって造られたと考えられている。 大森氏は北駿地域と呼ばれる現在の静岡県裾野市・御殿場市あたりを本拠としていたが、関東の争乱で次第に勢力を拡大。 さらに相模国や武蔵国で公方足利氏と関東管領上杉氏(長尾氏)による争乱が起こるなどの政治状況により、箱根を越えて小田原へ本拠を移したと思われる。 その頃の小田原は町場も独自に発展し、永享4年(1432)の関東公方足利持氏の御教書で「小田原関所」が見られるように、室町時代中期には関所も設けられていた。 小田原を支配下に置いた大森氏は、関守として交通の要衝も抑えていたことになる。 大森氏時代の小田原及び城について詳細は知られていないが、従来の町場もとりこみ、後の小田原城下の原点ともいうべき開発をすすめたと思われる。 この頃の小田原城は現在の八幡山古郭が中心といわれていたが、発掘調査によって八幡山から天正年間(北条氏政・氏直の時代)以前の出土品がないことから、大森氏の時代から小田原城の中心地は現在の城址公園の範囲にあったとも考えられている。 ただし、宗瑞は相模進出後も駿河国(静岡県伊豆の国市)に在城しており、小田原城を本城としたのは宗瑞の後を継いだ氏綱からだった。 氏綱は名字を「伊勢」から「北条」に改称し、虎の印判を用いた虎朱印状を始め、一定の地域の支配を管轄する拠点(=城)を取り立てる支城制を整えていくなど、後の北条氏代々にも続く基本の体制を作り上げた。 本城となった小田原城も整備、拡大されていったと考えられる。 ちなみに、小田原の代表的な商人として知られる外郎(ういろう)宇野氏は、氏綱の代に京から小田原へ移住したとも伝えられており、資料的な裏付けはないが、この頃に本格的に城下町の造成が進められ、小田原城に商人や職人が集まり始めたとも推定できる。 余談だが、宇野氏は現在も小田原城近くに店舗を構え「ういろう」として薬局兼和菓子販売を行っている。 氏康の時代には、小田原城の様子を記した記録がいくつか見られるようになる。 天文20年(1551)4月に小田原を訪れた京都南禅寺の僧である東嶺智旺の記したところによると、小田原の町の小路には塵一つなく、東南は海で麓に海があると記す。 なお、小田原城址公園内の御用米曲輪跡での発掘調査により庭園と思われる遺構が発見され、主君の居館はこの近辺にあったと考えられる。 だが、永禄4年(1561)に長尾景虎(上杉謙信)が襲来、氏康の跡を継いだ氏政の代である永禄12年には武田信玄も攻めてきて、2度とも小田原城は籠城。 当時の最外郭だった二ノ丸の門まで迫って囲まれ、城下は破壊・放火された。 小田原城でよく知られる広大な「総構(大外郭)」が作られるのは天正17年(1589)からで、氏政が隠居し氏直が当主の時である。 この総構は豊臣秀吉との戦が避けられない状況になったことから始められ、現在の小田原市街地が大部分入る広さを囲って空堀と土塁を築き、小田原は城郭都市ともいえる様相になる。 翌天正18年の小田原合戦では、総構が功を奏したか3ヶ月もの籠城戦となった。 この時は当主である氏直が本城に、氏政は八幡山へ別に構えた隠居城にいたという説もある。 江戸時代 小田原合戦の後は、徳川家康が三河にいた頃からの重臣である大久保忠世が小田原城に入るが、後を継いだ忠隣が失脚し、近江へ配流。 後の小田原城は、途中に5年間だけ阿部氏が城主となった期間はあるものの、しばらくは幕府直轄の番城となる。 それ以前から箱根を隔てて交通の要衝であった小田原は、江戸幕府にとっても重要視されていた。 ちなみに、江戸時代に設置された箱根関所の役人も、小田原藩から交代で赴任している。 寛永9年(1632)に稲葉正勝が城主になると小田原城の整備が始められるが、開始直後の寛永10年に大地震で城は被害を受け、その復旧も兼ねての大規模な工事を開始。 以後も延宝3年(1675)年頃までの約40年間にわたる整備が進められ、現在の小田原城に見られる近世的な城郭の形となった。 貞享3年(1686)、再び大久保氏が城主となり、以後は明治維新まで大久保氏が城主となる。 しかし、この期間には大地震や富士山の噴火など度重なる災害で小田原城も被害を受け、稲葉氏の時代に建てられたとされる三代将軍家光を迎えた豪華な建物は、ことごとく崩壊、消失した。 再建や改築がされるものの、本丸御殿は再建されず、桃山風の色を残していたとされる天守閣は、白い漆喰が塗り込められた姿となった。 明治時代以後 明治6年(1873年)に全国へ廃城令が出されるが、小田原藩はそれより前の明治3年に廃城届を提出。 財政の窮乏を補填するため、天守閣など城の払い下げを行った。 この時にほとんどの建物は取り壊されている。 その後の城内には県庁などが設置され明治23年に二の丸跡へ御用邸が建てられるが、大正12年(1923)の関東大震災による被害を受けて小田原の御用邸は廃止。 この時、江戸時代から残っていた石垣も多くが崩壊した。 ほどなく石垣の積み直しなど復興されるものの、以前より規模は小さくなっている。 戦後の昭和25年(1950)に城内に動物園と遊園地を建設。 昭和35年(1960)には天守閣を再建。 天守閣は平成27(2015)年から1年かけ、耐震補強などの大改修を行い、現在に至る。 小田原城址公園内で見られる遺構 現在の小田原城は城址公園となり、後期大久保時代にあたる江戸時代末期の姿への復元に取り組み、史跡整備が行われている。 再建・復元された建物の他、城址公園内で城FAN的におすすめの見どころは、天守閣と隣接する報徳二宮神社の間のエリア。 ここには関東大震災で崩壊した江戸時代の石垣の一部がそのままの姿で残されている。 また、現在神社がある場所も元は小田原城の小峰曲輪の一角であるため、城址公園から神社へ入る通路から曲輪間の掘跡をわずかながら見ることができる。

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筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城の防御は弱かった?

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小田原城(神奈川県)の惣構え 小田原城は戦国時代に北条早雲が奪って以降、約100年間にわたって北条氏の本拠地であり続けました。 100年の間に北条氏は全国でも最大規模の戦国大名となり、武田信玄や上杉謙信といった有名な戦国武将も小田原城を攻め落とすことはできませんでした。 小田原城は北条氏とともに戦を乗り越えて発展していきました。 そして東海・甲信越地方より西側をすべて統一した豊臣秀吉が、小田原城と北条氏の前に立ちはだかります。 北条氏は秀吉に対抗するために、惣構え(そうがまえ)とよばれる城下町ごと囲んでしまう堀と土塁でお城を防御。 結果、小田原城は戦国時代でも最大級の規模をほこるお城となりました。 スポンサーリンク 小田原城の歴史 ここからは小田原城の歴史を戦国時代〜昭和・平成まで順をおって紹介していきます。 戦国時代の小田原城 北条早雲が小田原城を乗っ取る 小田原駅前の北条早雲騎馬像 小田原城はもともと大森氏のお城。 大森氏は室町時代に相模守護を務めていた上杉氏の家臣でした。 当時駿河の今川家の家臣として活動していた戦国大名北条氏の初代・北条早雲(伊勢新九郎盛時、伊勢宗瑞)は1495年に小田原城を乗っ取っています。 その乗っ取った方法が変わっています。 ある時早雲は鹿狩りをしていました。 そして小田原城へと逃げ込んだ鹿を追い返すという理由で城内に入る許可をもらっています。 しかしこの鹿が逃げ込んだというのはウソで、城内に入った早雲と家臣はそのまま小田原城を奪ってしまいました。 この時に戦闘があったかどうかはわかりませんが、早雲の頭脳プレイでお城を乗っ取りました。 小田原城を手に入れた早雲はもともと居城としていた韮山城から動かずに、息子の氏綱に小田原城を任せました。 早雲から氏綱に代替わりすると、北条氏は秀吉によって滅ぼされるまで小田原城を本拠地としています。 上杉謙信・武田信玄も撃退した小田原城 合戦 北条早雲の孫・氏康の代になると、北条氏は関東で最大の戦国大名になっていました。 また周辺にも北条氏と同様に成長して大きくなってきた戦国大名が現れます。 それが上杉謙信と武田信玄。 北条氏によって領地を奪われ追い出されていた上杉憲政を上杉謙信は自身の領地:越後(新潟県)で保護していました。 上杉憲政の領地奪還の願いを聞き入れた上杉謙信は関東へ出陣。 北条氏の領地を荒らしながら、各地の武将を自身の配下としていきました。 そして上杉謙信が北条氏の本拠地・小田原城へ着いた頃には11万人の軍になっていたといいます。 しかし上杉軍は小田原城を力攻めでは攻め落とせなかった。 城下に放火したりなど北条軍をを挑発するものの、小田原城から北条軍は出てくる気配がありません。 しかも上杉軍は大軍だったために食料のが続かなくなる恐れもありました。 上杉謙信は10日ほど小田原城を包囲したのみで、退却していきました。 武田信玄も小田原城を包囲しています。 武田氏と北条氏はもともと同盟関係にありました。 駿河(静岡県)の今川氏を含めた三者で同盟を結び、それぞれの背後を守り合うことで敵に集中することができました。 しかし今川義元が織田信長に負けた桶狭間の戦い以降、今川氏の力が衰えていきました。 そこで武田信玄は同盟を一方的に破棄し、今川氏の駿河を攻めていきました。 そして北条氏康は今川氏の味方になり、それまで敵同士だった上杉謙信と同盟を結んで武田氏に対抗していきました。 上杉謙信と北条氏康にはさみ撃ちされる形になった武田信玄は、小田原城を攻めることで北条氏にダメージを与えようと考えました。 およそ2万人の軍で北条氏の領地に侵入した武田軍。 各地で略奪をしながら小田原城を目指していきました。 小田原城へ到着した武田軍は4日ほど包囲しただけで退却していきます。 小田原城を攻め落とすことは難しいと判断した信玄は、退却する際に追撃してくる北条軍を返り討ちにする計画に変更したのです。 北条軍と武田軍は三増峠で激突。 結果、武田軍が勝利して北条氏にダメージを与えることに成功しました。 秀吉の天下統一最後の戦い・小田原攻め 天皇を補佐する役職である関白となった豊臣秀吉は、地方の大名同士の戦いに介入していきました。 争いをやめない大名に対して、秀吉は武力で屈服させていきました。 秀吉は北条氏も屈服させたいと考えていました。 しかし北条氏を攻めるための理由をなかなか見つけられないでいました。 そんな中、「名胡桃(なぐるみ)城奪取事件」がおきます。 この事件では、北条氏の家臣だった猪俣邦憲が真田昌幸のお城だった名胡桃城を奪ってしまいました。 大名同士の争いをやめさせたい秀吉はこの事件を理由に北条氏を攻めることを決定。 20万人といわれる軍勢で北条氏を攻めていきました。 豊臣軍は2手に分かれて北条氏を攻めていきます。 1つは東海道から箱根を越えて小田原城へと向かう部隊。 もう一つは信濃(長野県)から上野(群馬県)へ侵入していき、関東各地の北条氏のお城を攻めていく部隊でした。 北条氏側では小田原城に籠城することで勝てると読んでいました。 そのために惣構えといわれるお城だけでなく城下町までも囲う堀と土塁を構築して防御力をアップさせています。 簡単には小田原城を攻め落とせないと分かっていた秀吉は、長期戦になることを予想していました。 そして北条氏を心理的に圧迫するために、秀吉は小田原城から3kmしか離れていない場所にお城を築いています。 これが有名な石垣山一夜城です。 お城が完成してから周囲の木を切り倒すことで、一夜にしてお城が出現したように見せたことから一夜城と言われています。 3ヶ月間の籠城戦の末、北条氏は降伏。 北条氏4代目の氏政は切腹を命じられ、5代目氏直は高野山での謹慎を命じられました。 江戸時代の小田原城 徳川の江戸を守る前線基地の役割を持った小田原城 小田原城の常盤木門 秀吉によって北条氏が滅亡した跡、北条氏の領地だった関東はそのまま徳川家康が引き継いでいます。 そして家康は北条氏が本拠地としていた小田原ではなく、江戸を本拠地としました。 家康は小田原城を西から攻められた場合の最前線のお城になると考えていました。 そのため家康も信頼している重臣・大久保忠世を小田原城の城主としています。 しかし大久保忠世の子・忠隣(ただちか)は家康によって領地と小田原城を没収されています。 このころはまだ大坂に秀吉の子・秀頼がいました。 大久保忠隣は秀頼への寝返りを疑われたため領地を没収されてしましました。 江戸幕府を開いて権力を集中させようとする家康と、それまで権力を握っていた豊臣家を尊重しようとする大名たちがいました。 もし大久保忠隣が秀頼の味方についてしまうと、江戸城を守ためのお城が敵になってしまう状況になってしまいます。 このような状況を未然に防ぐために家康は忠隣から領地とお城を没収したのでした。 江戸時代をとおして何度も地震の被害にあった小田原城 小田原城天守 江戸時代を通して小田原城は何度も地震の被害を受けていました。 1703年には関東地方を震源とする大きな地震(元禄地震)がありました。 小田原城では天守、本丸御殿、二の丸御殿が消失し、櫓や門、石垣が倒壊する被害を受けています。 その後、幕府の支援のもとで小田原城は復興していきました。 天守や二の丸御殿は再建されたけれど、本丸御殿は再建されませんでした。 もともと本丸御殿は将軍が江戸から京都へ向かうときの宿泊所として建てられた御殿。 最後に将軍が京都へ行ってから70年近く経っていたので、本丸御殿は不要とされたので再建されることはありませんでした。 小田原藩という藩のお城でありながら幕府支援のもとで小田原城再建が行われたのは、関東への入り口を守る位置にある小田原城を江戸幕府が重要視していたためです。 明治・大正の小田原城 廃城令より前に解体された小田原城 解体中の小田原城天守 幕末・明治維新の動乱が終わり、明治時代になると薩摩・長州藩を中心とした新しい政府ができました。 この政府は廃城令を出して、陸軍が使用するお城とそれ以外の売却用のお城に分けています。 しかし小田原城は廃城令が出されるより3年早く解体されることに。 小田原藩藩主の大久保忠良は財政難からの小田原城維持困難を理由に、政府に対して廃城を願い出ました。 これはもともと戦国時代から徳川家を重臣として支えてきた大久保家が、新しい政府に対して従う姿勢を見せるために廃城を願い出たとも言われています。 小田原城は全国でも先駆けて廃城になり、天守や櫓などが解体され民間に払い下げられていきました。 関東大震災によって石垣や櫓が倒壊した小田原城 1923年、関東地方を大きな地震が襲いました。 関東大震災です。 関東大震災では小田原付近が最も揺れたため、小田原城は壊滅的な被害を受けました。 当時の小田原城は宮内省の管轄にあり、小田原御用邸として天皇家の別荘となっていました。 地震によって御用邸は大破し、現存していた唯一残っていた二の丸平櫓は倒壊。 天守台などの石垣も崩落する被害を受けました。 二の丸平櫓は震災より10年後の1932年に復興され、天守代が修復されたのは戦後になってからでした。 昭和・平成の小田原城 天守や門が再建された小田原城 再建された銅門 昭和になると小田原城は国の史跡にしていされました。 1938年から10回にわたって史跡に指定。 本丸、二の丸、三の丸や惣構えの一部が指定されています。 戦後になると小田原城は、小田原城址公園として整備。 1960年には小田原市市制20周年の記念事業として天守が再建されました。 天守の再建に際し、江戸時代の設計図や模型を参考にして外観のみ復元されました。 その後昭和から平成にかけて、常盤木門、銅門、馬出門が復元されています。 スポンサーリンク 小田原城の歴史年表 1418 足利持氏の家臣・大森頼春が小田原城を築く 1479 北条早雲が駿河の興国寺城城主になる 1493 北条早雲が伊豆を平定する 1496 北条早雲が小田原城を奪う 1513 北条早雲が新井城の三浦義同を滅ぼして相模を平定する 1561 上杉謙信が小田原城を包囲する 1569 武田信玄が小田原城を包囲、撤退中に三増峠で北条軍と激突 北条氏康が小田原城を三の丸まで拡大する 1589 北条氏政が豊臣秀吉に備えて惣構えを築く 1590 北条氏政・氏直、豊臣秀吉に小田原城を包囲され降伏 徳川家康が北条氏の領地を継承し、小田原城に家臣の大久保氏を入れる 1614 大久保忠隣が領地とお城を没収され、小田原城は本丸以外を壊される 1632 稲葉正勝が小田原城城主になり、城の整備を始める 1634 3代将軍徳川家光が京都へ向かう途中に、小田原城本丸御殿に宿泊する 1675 小田原城の整備が終わり、現在のお城の形になる 1686 大久保忠朝が小田原城の城主になる 1703 地震によって天守や御殿などが焼失・倒壊する 1850 外国船に備えて小田原城の海岸に砲台を築造 1870 小田原城が廃城になり、天守などの建物が解体される 1923 関東大震災によって櫓や石垣が被害を受ける 1960 天守が再建される 1971 常盤木門が再建される 1997 銅門が再建される スポンサーリンク 小田原城の歴史 まとめ 今回は 小田原城の歴史を紹介しました。 いかがでしたか? 小田原城は戦国時代では北条氏の本拠地、江戸時代は江戸城を守る徳川のお城でした。 全国にはたくさんのお城があり、それぞれのお城の歴史には築いた武将や城主になった人などの個性が表れています。 歴史を知ることでより観光や歴史ドラマなどを楽しむことができる。 最後にもう一度ポイントを整理しておきます。 このポイントだけでも覚えていってもえらると良いと思います。

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日本全国!主な戦国大名の城一覧【城主・築城年数・城の場所】

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小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台 八幡山 に築いた山城でした。 城の規模や築城年は明らかになっていませんが、15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。 15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していきました。 小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大に達しました。 しかし、天正18年(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻めにより北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。 北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。 その後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。 貞享3年 1686 に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。 小田原城は、明治3年 1870 に廃城となり、明治5年までに城内の多くの建物は解体されました。 後に、小田原・足柄県庁・神奈川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用邸が建てられました。 しかし、大正12年 1923)9月の関東大震災により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失われてしまいました。 その後、昭和9年 1934)に隅櫓が再建され、昭和35年 1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守閣が復興されました。 続いて昭和46年 1971)3月に常盤木門が、平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。 小田原城は、昭和13年 1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、昭和34年 1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡に指定されています。

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