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最近話題になっているてんかんが原因の交通事故ですが,殆どの場合が側頭葉てんかんが原因になっています. 側頭葉てんかんは,本人が自覚のないままに無意識に行動する自動症が特徴です. しかも,発作の前兆がない場合,患者さん本人に発作が合った自覚が持てません. このことが,自分の発作を過小評価して,気軽に運転することにつながっているのです. 側頭葉てんかんは高齢者のてんかんの大部分を占めており,てんかんの中で最も看過できない発作型と言えます しかも,側頭葉てんかんは、成人の代表的な難治てんかんのひとつです。 難治てんかんとは、薬物療法で発作が止まらないてんかんを意味します。 側頭葉てんかんの原因としては、仮死分娩、脳炎・髄膜炎の後遺症、はしか、突発性発疹、先天性脳腫瘍、大脳皮質の形成障害、脳血管障害、頭部外傷など、非常に多岐にわたっています。 てんかんというと遺伝を考える人がいますが、側頭葉てんかんで遺伝性のものは皆無に近いといえます。 側頭葉てんかんは、特異な発作症状以外に、記憶障害、性格変化、精神症状など、他のてんかん発作に見られない様々な随伴症状があります。 また、薬が効きにくい代わりに、外科的治療にきわめてよく反応するという利点もあります。 以下の項目ににわけて、側頭葉てんかんを解説しました。 現在この病気を持っている患者さんが、1人でも多くこの最も危険な発作から解放されることをお祈りします。 側頭葉てんかんの発作症状は、複雑部分発作とよばれます。 この名前のとおり、非常に特異な発作症状で、なれていない人にはてんかんとは思えないかも知れません。 最も一般的なタイプは、まず 上腹部の不快感などの前兆があります。 前兆には、フラーっと倒れそうな感じがする めまい感、高音性の耳鳴りなどもあります。 また眼前の景色が懐かしくかんじられる デジャビュや、頭の中で同じような景色や音、声などが浮かぶこともあります。 この前兆だけで終わっって、発作に発展しないこともあります。 また、発作に発展しても、前兆までしか記憶していないのが通例です。 前兆から発作に移行する場合は、虚空を凝視し、体が硬直、顔がチアノーゼで青くなる場合が多く見られます。 口をペチャペチャさせたり、舌をツパッツパッと鳴らしたりする自動症が見られます。 「はい、はい」などの、その場と関係のない言葉を反復することもあります。 中には、歩き出したりする徘徊自動症というのもあります。 発作の持続時間は,大体1-2分です。 その後、5-6分くらいもうろうとした状態が続いて、回復します。 患者さんは、発作の前兆ともうろう状態の部分は記憶していますが、発作中のことは全く覚えていません。 名前を呼ぶと、返事をすることがあるので、周囲の人は意識があるように錯覚しますが、本人は記憶していません。 さらに、 発作の間は、熱い、冷たい、痛いなどの感覚がありません。 このため、発作中に熱湯が体にかかっても、発作が終わるまでは気づきません。 家庭の主婦が、家事の最中に発作を起こして、大やけどをすることもあります。 最も怖いのは、入浴中に発作が起きて、風呂の湯を発作中飲み続けて、溺死などの悲劇につながることです。 このように、余り目立たない発作ですが、全身けいれんなどよりも、はるかに 生命に対する危険性が高いといえます。 さらに、やっかいなことは、発作の前兆がない患者さんも少なくありません。 前兆がないと、発作があったことすら自覚できず、危険性の高い発作にもかかわらず 患者さんの病気に対する自覚が低いこともこの病気の治療が困難な原因の一つとなります。 側頭葉てんかんの焦点の首座は海馬にあります。 海馬は記憶の出し入れに関係した器官です。 記憶には、はるか過去の記憶と、最近の記憶と、直前の出来事の記憶の3種類があります。 これらは、遠隔記憶、短期記憶、瞬時記憶などとよばれています。 側頭葉てんかんで最も障害されやすいのは、短期記憶です。 2-3日前のことや、数時間前の出来事が忘れやすい傾向がみられます。 このような記憶を留める大脳の機能を記銘力と呼びます。 てんかん焦点が右にあるか左あるかによっても、記銘力障害のパターンが異なってきます。 左側の脳は、通常言語機能を営んでいるので、言語の優位半球と呼ばれることはご存じと思います。 このために、左の海馬の障害では、言語性記銘力の低下が生じます。 人の名前を忘れたり、言葉に関連する記憶が障害されやすくなります。 少しややこしい話が理解できなくなったり,抽象的な話をされるとついて行けません. また,自分で話す場合でも,適切な言葉が浮かんでこないので苦労することがあります. これに対して、右側の海馬に焦点がある場合は、人の名前などは比較的記憶していますが、 出来事、地理、人の顔などの記憶障害が目立ってきます。 左側の場合は、言語性記銘力以外にも、右と同様な視覚性記銘力も同時に低下します。 つまり、焦点が左側に存在する方が、記憶障害の程度が強いと考えてもよいでしょう。 両側に焦点が存在する場合も、左側の焦点と同様に、言語性、視覚性の両方の記銘力が 低下し、その程度はさらに強い傾向が認められます。 しかし、側頭葉てんかんの全例で記憶の障害が生じるわけではありません。 てんかん発作の原因が仮死分娩などの乳幼児期の出来事に関連していると、片側の海馬の 機能が完全に脱落していても、反対側が代償していて、 記憶障害が全くない方もいます。 側頭葉てんかんが他のてんかんと異なっている点は、発作以外にいろんな随伴症状を伴うことです。 記憶障害もその一つですが、それ以外に、性格変化、精神症状などを伴うこともあります。 性格変化 海馬は、辺縁系と呼ばれる脳の古い部分に属しています。 つまり、人間でも動物でも共通に発達している部分で、人間の進化の過程で発達した大脳新皮質とは異なります。 ネズミの海馬などは、脳の断面を作ると、その大部分が海馬で占められています。 てんかん発作は、一種の電気現象であるから、たとえて言えば、発作前の状態は海馬が充電した興奮状態にあるとも言えるでしょう。 この状態になると、いらいらが強くなったり、攻撃的になったりしがちです。 同じことを言われても、普段なら聞き流しておくようことでも、激しく反抗してきます。 些細な原因で、ひどく怒り出したり、時には、暴力を使ったりすることもあります。 怒りの対象は、最も多いのが母親です。 さらにエスカレートすると、対人関係もうまく保てなくなってきます。 しかし、てんかん発作が起きて海馬に貯まった電気が放電されると、本来の穏やかな性格に戻ります。 側頭葉てんかんを持つ患者さんの性格変化は、このように 良いときと悪いときと、むらがあることです。 いつも機嫌が悪いのは、てんかんのせいではなく、もともとの性格と言うことになります。 また、側頭葉てんかんでも、このような性格変化が全く見られず、きわめて穏やかな性格の人もいらっしゃるので、とても不思議です。 妄想では、特に被害妄想が多いように思えます。 隣の人が自分の悪口を言っている、などのような妄想が突然出現してきます。 このような精神症状は、てんかん発作を患っている期間が長いほど起こりやすいと言われています。 性格変化は発作そのものに関連しているので、手術でてんかん発作が消失すると、 性格変化も劇的に改善されます。 それに反して、精神症状は、側頭葉の直接の症状ではないようで、てんかん発作が消失ても余り改善されません。 中には、手術後に発作が完全に消失しているにもかかわらず、新たに精神症状が出現することもあります。 つまり、手術の有無にかかわらず、一定の割合で、精神症状が出現すると考えたほうがよいでしょう。 精神症状は、抗精神病薬で改善されますが、患者さん自身が自分の精神症状を病的だと認めないために、 薬物治療が困難なことも少なくありません。 単剤療法 側頭葉てんかんに使われる最も代表的な薬は テグレトール カルバマゼピン である。 まず、単剤療法でテグレトールを耐えられる最大限までに増量する。 単剤療法で発作がコントロールされれば、それが最も望ましい形です。 テグレトールの血中濃度が上昇すると、中毒作用として、眠気、ふらつき、目の焦点が合いにくいなどの症状が出現してきます。 また、体質的に合わない場合は、過敏症状として、発疹、発熱、リンパ球の腫脹などがみられます このような過敏症状が出現したら、直ちに服薬を中止しないと、症状が重篤化して非常に危険です。 特に、薬疹などの過敏症状を放置して、服薬を継続すると、SJS Stevensen-Johnson Syndrome と呼ばれる 生命の危険を伴うような症状にまで発展します。 「薬疹かなと思われる症状」が出たら、直ちに服薬を中止する。 これが、常に原則であることを頭にしっかり入れておいてください。 テグレトールはグレープフルーツのジュースと一緒に服用すると血中濃度が高まるので注意しましょう。 2015年代に入って、ラミクタール ラモトリジン ,イーケプラ レベチラセタム などが単剤利用可能になったので 側頭葉てんかんに関する第一選択薬の範囲が広がってきました。 テグレトールと比較して薬疹などが生じにくく多剤との相互作用がほとんどないイーケプラを 第一選択薬に選ぶ医師も増えてきました。 イーケプラは比較的副作用の少ない薬ですが、非常に怒りっぽくなるなどの精神症状が出現することがありますので このことを常に念頭に置いて使用するとともに、患者さんにも注意を促しておく必要があります。 また、ラミクタールは薬疹の発現頻度が高いという問題点はありますが、妊娠の可能性のある女性の場合、 胎児の催奇形性が低いなどの理由で、若い女性の第一選択薬として選ばれる場合が多い傾向にあります。 しかし、最近のエビデンスの蓄積では、ラミクタールとイーケプラの催奇形性にはほとんど差がなく、 両者ともかなり低い催奇形性の割合が報告されており、抗てんかん薬を服用していない人との危険性の差は ほとんどないように見えます。 ラミクタールとイーケプラはともに側頭葉てんかんに有効ですが、ラミクタールの方がやや全般発作に対する 有効性が高く、イーケプラのほうはやや部分発作寄りの有効性を示す印象があります。 しかし、これはわずかの差で、むしろ患者さんの個体差により有効性が異なる場合の峰が多い印象があります。 それ以外に、第一選択薬としてアレビアチン フェニトイン 、エクセグラン ゾニサミド などが候補となります。 アレビアチンは、薬の服用量と血中濃度が比例して上昇せず、ある点を過ぎると急激に血中濃度が上昇するので、 服用量の調整がむずかしい薬です。 また、歯肉の増殖、毛深くなる、などの副作用があるので、若い女性には慎重に投与する必要があります エクセグランは、単剤で思い切って血中濃度を上げると著効を呈することがあります。 エクセグランの副作用として、発汗減少を来すことがあるので、暑い時期は熱中症に注意する必要があります。 そのほか、精神症状、食欲低下などもよく知られた副作用です。 しかし、胎児に対する催奇形性はこれまでの報告では、エクセグランはきわめて低い結果が報告されているのは 非常に注目に値することかもしれません。 デパケン、セレニカなどのバルプロ酸は小児の側頭葉てんかんでは第一選択ですが、思春期を過ぎて成人になると 効果が乏しい例が少なくありません。 小児期に有効であったバルプロ酸が成人気になって効果がなくなることは非常に重要なことですので、 子供の頃からバルプロ酸を服用していて、成人になって複雑部分発作が再燃した場合は, バルプロ酸の効果に 変化が生じた可能性を考慮する必要もあります。 多剤併用療法 単剤療法で発作がコントロールできないときは、有効と思われる薬をいろいろと組み合わせてみます。 上記の薬以外にも、トピナ トピナマート 、ガバペン ガバペンチン 、マイスタン、プリミドン プリミドン 、 リボトリール クロナゼパム ,などが試みられます。 トピナはいろんな性質を持った薬で、偏頭痛や三叉神経痛の治療などにも使われますが、側頭葉てんかんに対しては、 50mgから200mgの間の比較的少量で著効を呈することがあります。 マイスタンも同様で、最大投与量が30から40mgくらいまで可能な薬ですが、5-10mgの少量投与で 効果が見られることが少なくありません。 ただし、この薬は耐性が生じやすいので、効果が乏しくなったら増量する必要があります。 ガバペンは小児に対しての方が有効性が高い印象がありますが、成人でもガバペンが著効する例もあります。 また、生理に関連して発作が増加する女性の場合はねダイアモックスが非常に有効なことがあります。 ダイアモックスの副作用としては、手足の指先のしびれがあります。 しびれが強すぎて使用できない場合があるほかに、ダイアモックス自体が利尿剤なので、 トイレに行く回数が多くなり嫌がる患者さんもいます。 多剤併用療法で最も注意すべきは、どの薬の血中濃度も不充分で、有効に作用していないことがあることです。 特に、多くの薬を同時に使用しますと、薬の相互作用により、血中濃度が変化することが少なくありません。 治療している患者さんで、どの薬が最も有効であるかをみきわめて、その薬の血中濃度を可能な限り高くすることが大切です。 2016年代に入って、ビムパット ラコサミド なども、側頭葉てんかんに効果が期待できる薬剤として 導入されています。 今後の、効果が期待されます。 また、経口薬だけで十分に発作が抑制できない患者さんには、ダイアップ坐剤などを併用すると、 かなりの発作の抑止効果が得られますので、覚えておくと便利です。 抗てんかん薬を多剤服用しても発作がコントロールされない患者さんは、外科的治療で、この苦境から 脱出できたら、どんなに素晴らしいことだろうと、想像されることかと思います。 しかし、外科的治療で非常に改善する患者さんと、手術が全く効果が乏しい患者さんといます。 私の約500例の側頭葉てんかんの手術経験からいえることは、手術前の脳波が鍵を握っています。 てんかん専門医による脳波診断で、異常波が片側の側頭葉からだけ発生している場合は、 外科的治療により好結果が期待できます。 頭皮脳波で両側に異常波が出現する場合は、たとえ頭蓋内電極を留置して、片側の優位性が証明されても あまり良好な手術結果は期待できないことが多いようです。 このような例では、 迷走神経刺激術などの緩和的治療をまず試みられるのがよいと思います。 以上のことを念頭に置かれた上で、以下の外科的治療の内容をお読みください。 側頭葉てんかんの外科的治療は1950年代に完成されました。 50年以上の歴史的検証を経て、その有効性は広く認められています。 最も古典的な手術は、前側頭葉切除術と称して、側頭葉の先端から約5cmまでを、海馬などの内側構造を含めて、一塊として切除します。 実際には、言語の優位半球では、4. 5cm 程度に短めに切断しますが、非優位半球の右側では7cm位まで切除することがあります。 近年手術用顕微鏡の普及に伴って、海馬などの内側構造を選択的に切除して、なるべく外側皮質を温存する方法が普及してきました。 その代表的なものが、 "前内側側頭葉切除術"と"選択的扁桃体海馬切除術"です。 前内側側頭葉切除術 この術式は、側頭葉の先端に2-3cmの比較的小さな窓を作り、ここから側頭葉内側の海馬に到達します。 従来の側頭葉切除術と比較して、外側の大脳組織を切除する範囲が狭いので、術後の言語障害などの後遺症が出現しにくいという利点があります。 また、視野が広いので、手術操作もやりやすく、現在多くの施設でこの手術法が採用されています。 選択的扁桃体海馬切除術 前頭葉と側頭葉の間の溝をシルビウス裂と呼びます。 この溝の間を分けていって、髄液の充満した側頭葉の下角 脳室 の天井を開けます。 海馬は下角の床を構成している真っ白な組織です。 扁桃体は海馬の前方に、下角の天井からぶら下がるように存在します。 下角の天井の穴から、この扁桃体と海馬を切除する方法です。 外側の脳の組織は殆ど切除されないので、きわめて選択的な海馬の切除法です。 側頭葉の外側皮質を切除しないので、術後の言語機能の障害を避けることができます。 しかし、海馬を切除することには代わりはないので、左側の海馬の萎縮が少ない場合は、 他の手術法と同様に、 手術後の記憶障害を避けることはできません。 手術成績 側頭葉てんかんの手術成績はきわめて良好です。 手術前の検査で、発作症状、脳波、MRIの画像診断などがすべて一致して、片側の側頭葉のみがてんかん発作に関係してる場合は、 手術成績はきわめて良好となります。 特に、MRIで海馬硬化症の所見があり、蝶形骨誘導による脳波で同じ側から強いてんかん波が見られるようなケースが、 最もよい手術結果が期待できます。 脳波で両側の側頭葉から異常波が見られる場合は、片方がきわめて優勢であれば、そちらの側の手術により、 かなり発作を改善させることができます。 場合によっては、比較的少量の服薬で完全に発作が消失することも期待できます。 手術して発作が残存する場合は、反対側の側頭葉に焦点が残っている場合、手術した側の焦点が広く、 手術範囲よりさらに後方に焦点が広がっている場合、などが最も頻度の高い原因です。 後方に焦点が残存している場合は、追加手術により発作が消失することもあります。 手術の後遺症 側頭葉てんかんの手術は、てんかん外科に習熟した脳外科医が行えば比較的安全な手術です。 しかし、海馬を切除する限りどうしても避けられない後遺症があります。 それが 記憶の障害です。 左の側頭葉切除で出現しやすい症状です。 記憶障害が術後に生じやすい場合としては、• 術前のMRIで海馬の萎縮が見られない• 手術時年齢が高い• 手術前の記憶機能が良好 などが、挙げられます。 これらの項目の中で、海馬の萎縮が存在しないことが、最も重要な原因となります。 最近のMRIは非常に感度が高くなりましたので、わずかな海馬の萎縮や、海馬硬化症などを発見できます。 しかし、このような微細な変化しか起こしていない左の海馬を切除すると、高頻度に記憶の障害につながります。 特に、左側は言語の優位半球ですので、左の側頭葉切除では、 言語性記銘力障害と呼ばれる記憶障害が出現します。 記銘力とは、記憶を刻印する力で、これが障害されると、人の名前や、話の内容などをすぐに忘れてしまいます。 厳密に言うと、忘れるというよりも、記憶として残されていないと表現する方が正しいかも知れません。 単なる物忘れだけでなく、仕事の手順を言葉で説明されても理解しづらい、抽象的な話の意味を捉えにくいなどの障害も出現します。 このことからも、言語性記銘力は日常生活や仕事を円滑に行う上できわめて重要な機能であることがご理解いただけると思います。 左の側頭葉手術で、左海馬の記憶機能を温存させることは、長い間のわれわれてんかん外科医の夢でした。 1989年にモレル博士がMSTと呼ばれる画期的な手術法を報告しました。 これは、運動野や言語野などの切除不可能な部位にてんかん焦点がある場合に、これらの機能を損なうことなく、 てんかん焦点のみを抑制する方法です。 このMSTを海馬に応用できないか、長い間工夫を重ねてきました。 海馬は、側頭葉内側の深部に存在するので、記憶線維を障害しなしように到達する方法を発見するのに苦労しました。 また、MSTは非常に細かい操作ですので、ある程度広い視野を確保する必要もあります。 2001年に、側頭葉外側の上端 上側頭回 で、言語野を含まない先端から4cm以内に小さな切開窓を形成し、 ここからシルビウス裂に沿って灰白質を吸引して、側頭葉の脳室天井を開放し海馬に到達する方法が確立しました。 皮質切開窓をきわめて小さくすることにより、表面の主要な血管を損傷することが避けられます。 一端下角が開放されますと、広い脳室の空間が開放されますので、入り口の皮質切開窓が小さくても、 手術用顕微鏡でのぞき込むと海馬に対して、細かな操作を加えることが可能です。 海馬の神経線維の方向に沿って、5mm間隔で2mmの深さの線条を海馬の表面に沿って加えていくと、見事にてんかん波が消失します。 通常のMSTでは、4mmの深さで切り込みを入れますが、海馬の場合は、てんかん発作に関連している錐体細胞層が 表面から2mm以内に存在するので、線条をこれ以上深くする必要はありません。 また、海馬を走る記憶線維は海馬の長軸にほぼ直行して走り、内側の海馬采と呼ばれる神経束に収束していきます。 従って、この線維に平行になるようにMSTを加えていけば、記憶線維が保たれることになります。 下の図に示すように、海馬多切術では海馬は丸ごと温存されるのに比較して、側頭葉切除術では、どのように選択的に 外側の大脳皮質を残しても、海馬そのものは切除されてしまいます。 そのために、海馬と密接する記憶機能が障害されるわけです。 現在までに、70例以上の側頭葉てんかんをもった患者に海馬多切術を施行しました。 この結果は、従来の側頭葉切除術に十分比肩できる成績と言えます。 しかも、言語性記銘力は、手術後版年後の検査では、ほぼ全例で手術前のレベルにまで回復していました。 海馬に萎縮のない左側頭葉てんかんに対しても、外科的治療が可能な時代が到来したと言えます。 この手術法の詳細な解説は 文責 清水クリニック院長 清水弘之 日本てんかん学会専門医・指導医.

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ローマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、の文化、を代表する。 、そしての支配地域に広く残ると、の存在により、に始まるの源泉となった。 をはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、、そしての影響を受けつつ発展していった。 においての影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつののように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。 そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立したを思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やなどを包含した、円形闘技場、公共浴場などのが想起される。 また、精密に構築された、水道を架けるための、建築物の天井を覆う、、などの優れた・は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。 マクセンティウスのバシリカ 末期ローマのバシリカ ローマ建築は頃からまでに形成されたの建築である。 4世紀以降、ローマ帝国のとは東方に継承され、まで存続することになるが、このの建築はとして、ふつうローマ建築とは区別される。 古代ローマは、にを取り巻く広大な地域を勢力下においたが、共和政時代末期から帝政末期までの全時代を通じて、と先進的な東方の、の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、その意匠も地域的な差異がたいへん大きかった。 ただし、概してを擁する東方属州は伝統的要素の源泉であり続け、ローマ建築の影響を受けるのが遅く 、一方で、、などの北方・西方属州は様々な点で首都の建築を素早く取り入れ、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。 地域性があったとは言え、ローマに組み込まれ、または新たに建設された都市には、とともにローマ式の、、が導入され、これによってローマの属州は、着実にローマ化されていった。 を掌握し、の支配者となった古代ローマは、地方から流れ込む潤沢なと、有力者のによって活発な建築活動を行った。 の遺産を引き継いだ共和政時代のローマ建築は、ギリシア建築から多大な影響を受けつつ、ローマの社会に即した施設を構築し 、独自の建築技術であるオープス・カエメンティキウム(通称。 古代コンクリートとも呼ばれる)を開発する。 ただし、ローマン・コンクリート技術については、共和制時代の首都がギリシア芸術の影響で保守的傾向を示していたため、最初はローマ人入植地や軍事拠点となる地方都市の、目立たない場所や施設でひっそりと運用されるだけであった。 に帝政が敷かれると、建築を含む諸芸術はの好みを直接反映するようになり、ローマン・コンクリート技術も積極的に活用されて意匠面での革新をもたらした。 このため、ギリシア建築が持つ権威は依然として高かったものの、その重要性は相対的に低下し、後半以後のローマ市では、純粋なギリシア建築の意匠を持つ建築物が建設されることはなくなった。 帝国最盛期となるには、首都においてローマン・コンクリートを用いた独創的かつ壮大な建築が生み出され、皇帝の手による首都、あるいはその近郊の建築活動がローマの建築を牽引する役割を担った。 しかし、の四半世紀を過ぎると首都は公共建築で飽和状態となり、建築活動は停滞。 続くと呼ばれる時代には、首都の建築活動は完全に停止する。 帝国の防衛システムが機能不全に陥ったことで、北方から北東部、東方では大規模な内戦や他民族の侵入が頻発するようになり、これらの地域の建築活動もまた著しく低下した。 この時期、ローマ建築は交易によって経済的繁栄を謳歌していた北アフリカ沿岸部の都市で維持された。 末になると、首都の建築活動は再開されるが、ローマ帝国を取り巻く環境は大きく変化していた。 ローマ市は首都としての名誉は得ていたものの、もはや帝国の中心都市ではなく、その活動はによって選ばれた都市 に継承された。 また、帝国各地では伝統的なローマの神々ではなく、東方の宗教が信仰されるようになり、その施設が各地に建設されるようになった。 によってキリスト教が公認されると、ローマ建築はキリスト教の礼拝空間を生み出す素地としての役割を果たした。 のの死によって、ローマ帝国は西と東に分裂したまま二度と統合されなかった。 西ローマはに消滅し、情勢不安、異民族の侵入、などの渦の中でその建築も徐々に消滅していった が、東方ではその経済力と技術力によって、ローマ建築はさらに発展していくことになる(以降のローマ建築については、を参照)。 都市建設、土木技術に優れる。 歴史 [ ] 王朝時代・共和政時代のローマ建築 [ ] から直接の影響を受けるようになった前後は、ローマ建築の黎明期にあたる。 発掘された遺跡から、に至るまで神殿の構成にギリシア建築の要素はあまり見られず、また、紀元前2世紀以後にギリシア文明に直接触れた後も、ローマは単純にギリシア建築を導入したわけではなかった。 ギリシア芸術の導入と北方の植民市 [ ] ローマの(紀元前2世紀頃) 内陣が付柱になった疑似周柱式の神殿。 上のユピテル神殿と比べると、ギリシア神殿の影響が分かる。 まで、はからは完全に取り残された、どちらかというとあまり目立たない存在だった。 ローマの最初の建築は、その歴史が示すように、エトルリアからの直接的な影響を受けている。 初期の、例えばに奉献されたと伝えられるの丘のは、深い軒をの前面に有し、内陣が三連の室から成るため、間口の広がった横長のほぼ正方形に近い平面であった。 このように、低く横に間延びした構成はギリシア建築の神殿とは全く形態が異なる。 三つの内陣は、都市の建設に際して加護を求める三柱の神、、、のためのもので、その加護は神殿から見渡すことのできる範囲に限られるため、この神殿は市(ウルブス)の最も高い丘の上に、基壇()を構築して建設された。 ポディウムを設けて建築物に記念的な効果を持たせる試みはエトルリアにおいても比較的新しい発想で、その意識はギリシア建築の影響によるものと思われるが 、基壇の形態そのものはギリシアのものではなく、エトルリアの神殿建築に由来している。 このほか、紀元前5世紀初期にに建設された、フォルトゥナ、マーテル・マートゥータ神殿も、発掘によってほぼ同じ構成を持つエトルリア式神殿であったことが分かっている。 神殿以外の建築物について多くのことはわからないが、の丘に残る紀元前6世紀頃の貯水槽 、および同時代の市壁 などは、技術的面において、エトルリア建築のものとよく一致している。 しかし、紀元前4世紀になると、ローマは転換期を迎える。 のの勝利によって、ローマはにまで勢力を広げ、のとのの勝利によって、(イタリア半島南部と)がローマの勢力下に置かれた。 頃のこれらの地域は、シュラクサイ(現)やアクラガス(現)、ポセイドニア(現)などのが割拠しており、そこはまさにの領域であった。 ローマはさらに、の終結後、にと緒戦を開き(第二次マケドニア戦争)、にを征服、、を制圧してバルカン半島に進出した。 文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのをもたらし、これに反発する人々はいたものの、や、をはじめとするローマ人に受け入れられ、圧倒的な影響力を及ぼすことになった。 建築についても、紀元前2世紀末には、ヘルモドーロスのようなギリシア人建築家がユピテル・スタトル神殿を設計するなどの活動を行っている。 ギリシア建築の影響は神殿建築に顕著に現れており、エトルリア時代のとから成る平たい構成の神殿ではなく、のような、を用いた疑似周柱式の構成を持つ神殿が出現した。 についても、擬似的なオーダーは一掃され、ヘラクレス・ウィクトール神殿に見られるような正確なギリシア式オーダーに変貌した。 このようなギリシア芸術の影響は、ローマが衰退し、古代建築の規範が崩壊する4世紀頃まで、ローマ建築の中に受け継がれた。 一方、ローマは地中海とは異なる方向、に至る北方地域にも領土を拡大していた。 共和制時代に北イタリアには多くのが建設されたが、これによってローマは、ローマ式の社会構造とそれを収容する施設を都市に導入する機会を得ることになった。 アリミヌム(現)、プラケンティア(現)、ティキム(現)、ネマウスス(現)、コムム(現)などの軍事拠点都市にはローマの社会構造と地中海文明の都市形態が導入され、格子状の街路によって整然と区画された都市のかたちは、現在でもはっきりと認めることができる。 ローマ社会の形成と共和政時代の建築 [ ] 以後、急速に進んだ社会構造の複雑化に対応するため、ローマではギリシア起原の建築も独自に修正され、都市の中に組み込まれていった。 特に南イタリアでは、典型的なローマ建築と思われている建物、すなわち、、そして恐らくとが作り出された。 共和政時代の都市が残るでは、に建設された最初の恒久的なと闘技場が残っている。 バシリカもローマ領内では初期のものに属する。 このように、共和制時代のローマ建築は、社会構造に適した建築を新たに作り出したり、あるいはギリシア由来の建築物を機能に沿うべく作りかえたりしていた。 フォルトゥナ・プリミゲニア神域(パレストリーナ) 共和政末期のには、ローマは地中海を中心として、からに至る広大な領土を獲得した。 そして、あらゆる都市に首都ローマの政治的・社会的構造と文化をもたらすことになった。 とこれに付随するバシリカ、クリア、、タブラリウム(公文書館)、サエプタ(投票所)、そしてなどの公共建築は、首都の建築を直接、または間接的に模倣して建設された。 現在のローマ市に残る共和政時代の世俗建築はに建設されたしかないが、やコーサなどの共和政初期に建設されたでは、かつてローマに建設されていた建物を模倣した公共建築物が発掘されている。 ただし、植民市はローマの影響を受けるばかりではなく、保守的な首都に代わってなどの新技術を取り入れる実験場の役割を果たしていた。 代表的なものが、との採用である。 までにアーチの運用方法は確立されていたが、最初は目立たない場所か、あるいは倉庫などの美的観点が要求されないものに使用されていた。 紀元前2世紀頃になると、ポンペイの円形闘技場やのポルタ・マールツィア門などに見られるように、建物の開口部をアーチの連続するリズミカルなものに変えてしまうほど活用され、やがてこれは首都ローマの建築にも導入された。 このような運用が確立されると、オーダーは構造的な意味を失ってその権威も低下するが、オーダーが単なる装飾として意識されるようになるのは、さらに後の時代になってからである。 プラエネステ(現)のフォルトゥーナ・プリーミゲニアの聖域は、共和政時代の最も完成された建築であり、しばしば初期ローマ建築の傑作とされる。 この建築の正確な建設時期は議論があるが、ローマ建築がその独自性を最初に顕現させたスッラの時代、すなわちからの間と推定されている。 「バロック的」と評され、階段状に組また5つのテラスを上がるごとに建物の姿が現れる仕組み、アーチによってリズミカルにまとめられた立面、そしてローマン・コンクリートによるヴォールトなど、あらゆる要素で時代を先取りした建築となっている。 帝政初期の建築 [ ] ローマ帝政時代になると、ローマ建築の最大のパトロンは皇帝となるが、元老院議員や属州総督、などの有力市民層による公共建築の建設も活発であった。 帝政初期までに、ローマ建築の中にヘレニズム建築は完全に浸透し、アウグストゥス統治下において大理石による仕上げを用いることで成熟していった。 同時にローマ建築は保守的傾向を強く示すことになるが、一方で、の後にが建設したや、のでは、ローマ建築に新しい造形が導入された。 アウグストゥスによるローマの整備 [ ] フォルム・ロマヌム 伊 左より、、、右側丘の上に、中央奥にが見える と、その後継者にしてローマ帝国の初代となったは、保守的傾向の強い共和政末期の建築を継承した。 彼らが、元老院が統治する共和制から、皇帝に権力が集中するという政治組織に転換したことによって、皇帝の影響力は絶大なものとなるが、建築も例外ではなく、なによりもまず皇帝自身の好みや選択が建築の形態を決定するようになった。 これはローマ建築の新たな潮流であり、時代が下るにつれてこれが顕著に現れてくるが、アウグストゥスが皇帝になった当時は複数の流行が同時代的に見られ、彼の時代に特有な建築的特徴というものはあまり見られない。 アウグストゥスは絶大な権力を保持していたが、自らを共和体制の秩序の中に留めるよう慎重に振る舞っており 、一個人としての彼の趣味や傾向が、ひとつのスタイルとなって建築に反映されることはなかったようである。 しかし、アウグストゥスの好みを示唆する建築物が全くなかった、というわけではなく、彼の時代を代表する建築物はいくつか挙げられる。 そのひとつがで、最終的に完成したのは概ね末と考えられているが、建築の骨格部分はアウグストゥス存命中にはすでに完成していた。 全体構成はを繰り返したもので、建築として際立った特徴は持っていない。 ただし、が、アウグストゥスがの都市であるローマを、の都市として残したことを誇りにしていたと記録しているように 、このフォルムには類を見ない大理石装飾がふんだんに取り入れられており、これがアウグストゥスの嗜好を示す数少ない事例のひとつとなっている。 大理石彫刻はネオ・アッティカ派の職人の手によるもので、屋階のは、のを模倣したものである。 同じく、ネオ・アッティカ派によるアウグストゥスの時代の彫刻作品として、(平和の祭壇)を挙げることができよう。 アラ・パキスは、13年の内乱平定を記念して造られた祭壇で、政務官やが毎年儀式を行うことになったが 、これはアウグストゥス自身の偉大さを誇示するものであった。 様々な植物が絡み合う知的で洗練された彫刻は完成度が高く、ギリシア美術の影響は歴然としているが、一方で、祭壇を壁で囲む構成や、アウグストゥスを中心として明確な位階を表現する手法はローマのものである。 このようなやアラ・パキスの性格は、ギリシア芸術の権威とローマの建築工房の保守的傾向の帰結であり、彼の時代のローマ建築の特徴を端的に示している。 アウグストゥスによるローマの大規模な整備は、彼の部下で友人でもあったの手腕によるところが大きい。 特に開発が進められたのが、アラ・パキスの建つであった。 この場所は、長らく宗教的タブーによって未開発のままだったが、アグリッパはの治水工事を行って敷地を確保し、エジプトから取り寄せたオベリスク を指針とする日時計の広場を造営した。 さらにとを建設。 これとともに水道管理官を組織して水道の分岐管を計測して送水量を調整するなど、を整備した。 そしてローマ市初となる浴場、およびを建設したが、これらはの火災によって完全に失われている。 ローマ中心部の開発 [ ] からまでのローマ建築は決定的に保守的で、概してヘレニズム建築の延長であったが、アウグストゥスの時代に顕著であったこの古典主義的傾向は、クラウディウスの時代になると緩やかに衰退し始める。 クラウディウス帝時代に完成したのようなルスティカ仕上げは、それまでの古典的意匠とは相容れず、(水道橋という実用的建築であったこともあるが)それまでの伝統とは異なる新しい建築の表現が現れつつあったことがわかる。 帝政初期のローマ建築にあって、皇帝が造形に与えた影響はかなり大きい。 彼はローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなる、そして(黄金宮殿)を建設した。 前者についてはほとんど何も分かっていないが、後者はローマ市街を焦土と化したの大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。 当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、の丘の斜面にを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた。 現在はの地下に残された一部のみが残る。 八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたそのものである。 内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にと呼ばれ、らに影響を与えた。 しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築された天井とが架けられた八角型の部屋である。 八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。 ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。 ドムス・アウグスターナ 居住用翼屋と中庭。 ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったは、「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」が元老院議決により制定されたことで、に与えられた諸特権を確保した(これは以後フラウィウス家に引き継がれる)。 これにより、彼は、火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した。 この建築物は、三方を列柱廊で囲んだ庭園()の一辺を占め、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属していた。 アテナイののモデルになった可能性も指摘される、ギリシア建築の伝統に則した巨大公共建築であった。 同じくヴェスパシアヌスによって起工され、ネロのの人工池があった場所を埋め立てて建設されたは、こちらはローマの伝統的意匠に則した大建築物であった。 コロッセウムの意匠はルネサンスの建築家たちによって繰りかえし手本とされたが、当時は、、に連なる、どちらかというとすでに使い古されたデザインで、この建築物のすばらしさはむしろ工学的な部分にあると言える。 基礎はかなり深く造られており、池の跡に建設されたにもかかわらず建物は全く沈下を起こしていない。 下部構造は切り石による積石造で、上部構造は重量を軽減するためにコンクリートが用いられた。 建設は4つの部分に分割施工され、材料に応じて入念に行程分けされた。 その組織的かつ効率的な建設事業はたいへん高度なもので、ローマ建築の技術レベルの高さを物語る。 建築家ラビーリウスによって、からの間に完成したの大邸宅、は、の丘に聳え、古代末期に至るまで皇帝宮殿として機能した。 謁見のための空間であるアウラ・レギア、バシリカ、ララリウム(玄関か?)と、用途のはっきりしない部屋を持った中庭、そして大宴会場から成る公式な空間は、に向かって配置されており、一方で私的空間は、に向かう斜面に形成され、この二つの空間を列柱に囲まれた中庭が接続した。 皇帝の私的空間である翼屋は、公的空間とは対照的な平面を持ち、中庭を介してキルクス・マキシムスに向かって大きなエクセドラがあった。 ドミティアヌスの計画した他の建築物は伝統に則した保守的造形であったが、このドムス・アウグスターナのみはネロのドムス・アウレアと同じくローマン・コンクリートによる革新的な造形を持つ建築物で、上階と下階の平面は完全に独立している。 敷地の条件によるものではあるが、このように居住空間を上下二段に構成する試みは、と中庭のある平面的住宅から、都心部の多層型住宅への方向性を示している。 五賢帝時代 [ ] と彼に続く五賢帝時代は、ローマ帝国の最盛期であり、近代の歴史家によって「人類史上、最も幸福な時代」と評されたこともあるが、帝国の歴史を俯瞰するならば、繁栄から衰退への転換期であったとされる。 建築についても、すでに後期にヘレニズム建築の伝統は変質しはじめていたが、五賢帝時代になると新たな建築意匠が明確に模索されるようになり、また、表現されることになる。 の死以後、首都の建築活動は衰退するものの、この時代に建設された建築は、属州のみならず、初期キリスト教時代にまで影響を与えた。 トラヤヌスの時代のローマ建築 [ ] トラヤヌスの市場 の建築を考察する際には、建築家の名を挙げなければならない。 彼がどのような指向を持った人物だったかについては議論があるが、ローマン・コンクリート技術を巧みに操ることのできた技術者で、都市計画についても知識を発揮できた人物であることは確かである。 ローマの公共浴場はカンパーニアで始まったと考えられているが、いわゆる皇帝浴場とよばれるタイプの建築はで完成された。 この浴場はの丘に建設され、ネロのの居住用翼屋の跡に建設されている。 すぐ側には、が起工し、によって完成されたがあり、システムとしてはとほとんど同じであったと考えられている。 ただし、トラヤヌス浴場はもっと大規模で、施設の中心に冷浴室()、温浴室()、プール(ナタティオ)が配置され、これを両側から運動場()が挟み込む形式となっていた。 南側はが嵌められた開口部がふんだんに開けられ、内部はたいへん明るかったと思われる。 機能的には、それぞれ個別の施設であった浴場とが完全に融合しており、中庭の外周には講義室、ギャラリー、図書館、店舗が組み込まれた。 、など、以後の皇帝浴場はほとんど同じ形式の建物で、この浴場の影響がどれほど大きかったかが分かる。 は、北方属州から導入されたバシリカ・フォルム・神殿複合体と呼ばれる形式で建設されたもので、ローマに建設された皇帝によるフォルムとしては、最後にして最大の作品である。 フォルムの西辺にはが建設され、そのさらに西側に小さな中庭を挟んでトラヤヌスの神殿があった。 中庭には、帝政初期の古典的な技法ではない、個性的な浮き彫り彫刻が施されたが聳えるが、フォルム全体の性格はに則ったもので、バシリカ・ウルピアについても、造形は決定的に保守的であった。 しかし、それでもバシリカ・ウルピアはローマ帝国最美の建築とされ、たいへん賞賛され、属州で広く模倣された。 は、の丘との丘を結ぶ線上に計画されたの一部を成しており、斜面の等高線に沿った3方向からのアクセスが考えられていた。 下部はフォルムからバシリカを経て到達するもので、2層からなる半円形平面を形成する。 その上部の道は今日もヴィア・ベラティカと呼ばれる街路として残っており、3階建ての店舗と集合住宅に囲まれていた。 東側はそこからさらに上の道に通じていた。 トラヤヌスの市場は実用的な商業建築であったので、大理石などの高価な素材による装飾は認められず、建物の装いは煉瓦だけで構成される。 プランニングについても、共和制時代の鈍重さから抜け出した自由なもので、アーチを用いた戸口のリズミカルなパターンとカーブしたファサードはローマ建築のあたらしい構成要素のひとつとなった。 ハドリアヌスの建築と首都ローマの停滞 [ ] 古代世界で最も偉大な皇帝と呼ばれるハドリアヌスは、トラヤヌスが獲得したなどの不安定な領土の維持を放棄し、国境線を画定した ため、を除いては、帝国は平和な時代を迎えた。 ハドリアヌスによってもたらされた平和は、ローマ建築を成熟させ、帝国の威厳を体現するようなすばらしい建築を生み出すことになった。 ハドリアヌスの霊廟 下部構造の部分がローマ時代のもの。 上部は要塞として改修された。 からにかけて建設されたは、現在でも内部空間を実感できる、ローマ建築を代表する建築物である。 真円の平面はたいへん単純なものだが、圧倒的な大きさの半球ドームと、その頂点から差し込む光によって、象徴的な空間となっている。 あまりにも完成された空間であったことと、構造を改編することが容易だとは思われなかったことで、ローマが完全にキリスト教化した後もこの建物は破壊されず、、あるいは前後にキリスト教の聖堂として聖別された。 この象徴性は、恐らくその設計のなかに隠された明快な比例関係に起因する。 また、基礎は、地盤面下幅約7m、深さ約4. 5mに渡って造成されたローマン・コンクリートの上に組積された大理石で、建物上部は凝灰岩、その上は軽石とローマン・コンクリートによって整形されている。 構造体には意図的に空洞が穿たれ、建物の自重を軽減しており 、工学的に見てもたいへん優れた設計が行われていることが分かる。 ハドリアヌスがに作らせたは、にイギリスで好まれたに酷似した建築である。 に対する憧れはローマの人々の心にすでに刻まれていたもので、やティベリウス 、ネロ、ドミティアヌスらは、自らの好む別荘やヴィッラを所持していた。 は、この種の建築としては残存する数少ないものであり、特定の平面や構成を持たず、自然の環境や風景に応じて、かなり自由に造られたヴィッラの特徴をよくつかむことができる。 ハドリアヌスの趣味はかなり折衷的なもので、彫刻については完全なギリシアのものからエジプト風のものまで一緒に置かれており、ほとんど好事家的であるが、建物そのものは、技術的洗練と曲線の多用、色彩への関心、そして内部空間を外部に率直に表現することへの試みが見られる、当時最新の住宅建築であった。 「カノプス」、「海の劇場」、「黄金の広間」など、このヴィッラには多くの前衛的試みが詰め込まれているが、それがこのヴィッラの魅力であると言えよう。 ハドリアヌスの建設した建物で、最も有名で、最もよく目にするものが、現在はと呼ばれているハドリアヌスの霊廟である。 上部は後に補強されたもので、現在はローマ時代の下部構造が残る。 その着想はアウグストゥスの霊廟にあることは間違いないであろうが、より現代的な、そして要塞のようなデザインであった。 実際に、4世紀にはアウレリアヌスの市壁に組み込まれた軍事要塞として活用され、現在では完全に城として生まれ変わっている。 ハドリアヌス帝の時代まで、ローマ建築は意匠的にも工学的にも、絶え間のない開拓が試みられたが、が即位した以降、ローマ市の建築活動は極端に鈍化した。 首都ローマは中期には継続的な建設活動によって公共建築の飽和状態を迎えており、また、文化的にも急速に進んだ西方属州に追いつかれようとしていた。 皇帝による公共事業は、、、までの短い期間に行われただけで、比較的大きな公共工事は、、アレクサンデル・セウェルスの浴場、そしての丘の宮殿拡張工事が行われたに過ぎない。 続くには、政治的混乱によって首都の建築活動は完全に停滞期を迎え、やがて首都はコンスタンティヌス帝によって完全に見捨てられることになるのである。 属州の活動 [ ] 首都の停滞をよそに、ローマ帝国領属州では劇的な変化を迎え、特に地中海周辺部は空前の経済的繁栄を達成した。 にはの商業都市と、 にはなどの都市遺跡が、かなり良好な状態で残っているが、これらは地中海の物質文明の繁栄を今日に伝えている。 東方属州の伝統的建築と地方様式 [ ] バールベックのバッカス神殿 ローマ帝国によって建設されたが、ローマ神殿の影響はほとんどない。 ギリシア、小アジアのエーゲ海沿岸部では、ヘレニズムの伝統が常に生き続けた。 古代から繁栄を続けていた都市には、西方からの影響はほとんどもたらされず、に建設されたアグリッパのオデイオンなどは、イタリアの特徴を備えているという、その特異性からむしろ注目される。 東方属州も最終的にはローマの意匠と建築・土木工学を受け入れるが、バシリカですら小アジアでは2世紀になってようやく導入されるほどで 、比較的すんなりと受け入れられた建物は公共浴場と劇場に限られる。 や、アンキュラ(現)などにその遺構が残るが、浴場は東方属州において先例となる施設がなかったため、イタリア形式のものがそのまま建設された。 劇場についても、ヘレニズム時代にアナトリア半島を含む東方ではほとんど建設されていなかったため、ローマ時代に導入されたものが多く、その形式もローマ特有の形式となった。 その他の建築物、例えば闘技場などは、結局、全く採用されることはなかった。 ただし、ローマ軍の拠点都市では、かなり強力なローマ化が計られた。 代表的なギリシアの都市が属州アカエアの州都である。 コリントスは古代ギリシアを代表する都市であったが、にローマによって完全に破壊され、現在の遺跡に古代ギリシアに由来するものはほとんどない。 コリントスの都市としての骨格はオクタウィアヌスによって造り変えられたものである。 東方属州のなかでも、ではオクタウィアヌスの時代が建築の転換期となった地域が多く、ヘレニズムの伝統が比較的浅い地域では、これが顕著に現れている。 建設者としての才能を持っていたは、アゴラ、ストアなど、都市の中心施設をヘレニズムの伝統を持った建築としたが、水道橋や浴場、闘技場のほか、神殿をローマ式で建設している。 さらに、彼が共和制末期のローマ都市に採用されていた街路側面の列柱を採用して、アンティオケイアに建設した列柱道路は、その後シリアからアフリカの都市に大々的に導入された。 ユピテル・ヘリオポリス(現)はローマの神々ではない土着神の信仰中心地であるが、アウグストゥスが都市を改編した後、徹底的にローマ化され、さらにアントヌス・ピウスからカラカラの時代にかけて巨大な神殿が建設された。 アウグストゥスの時代の造営には、首都ローマの国家建築を建設した人々が動員されたことが知られている。 バールベックのようなシリア的ローマ建築は、、、、などで見られるが、例えば巨大な列柱道路、中央アーチの左右に水平梁を配置するペディメントなどは、瞬く間に小アジアの都市を席巻し、初期ビザンティン建築においても広く採用された。 シリア的意匠が小アジアのみでなく、地中海沿岸部にかなり早く広がったことは、ローマ建築における首都の影響力がますます低下していったことを意味する。 2世紀には属州の文化的・経済的水準は首都ローマに匹敵するほど底上げされており、建築のアイディアは首都ローマを経由することなく、属州相互の間で交換されるようになった。 また、属州では、イタリア半島のように良質なローマン・コンクリートを得ることができなかったため、建築材料は主に煉瓦を用いたものとなった。 煉瓦でヴォールトを構成するという、西方世界ではほとんど採用されることのなかった技法は、やがてローマ建築の新しい手法となり、後にビザンティン建築に継承される。 ローマ帝国後期の建築活動 [ ] 後期のローマ帝国の情勢は、まず、皇帝の権力が帝政前期のものから変質 したことに現れている。 また、蛮族の侵入による情勢不安はローマ軍団を肥大化させ、国家財政の逼迫により、徴税の強化をはかるため属州の再編成や官僚機構を整備させることとなった。 4世紀以降は貧富の差が激しくなり、それまで都市の建築活動の担い手であった都市参事会をはじめとする都市の有力者の裾野を狭めることになった。 加えて、彼らは都市の建設活動よりも官職によってその権威を競うようになり、裕福市民層からの寄付を失った都市の建築活動は衰弱していくことになる。 首都の衰退とテトラルキア [ ] ポルタ・ニグラ すでに五賢帝の時代からローマ帝国は衰退をはじめており、特に国境防衛力の弱体化は、の時代に顕著となった。 さらにセウェルス朝以降になると、東方ではの、北方ではゲルマン民族の侵入が繰り返されるようになり、はとの戦いで敗死し、はサーサーン朝に破れて捕らえられるなどの危機的状況を迎えたため、軍事力の強化は帝国の第一の課題となった。 とを平定したは、北方蛮族の脅威に対して、失われて久しかったローマの市壁を復活させた。 彼の時代には、ローマ市にそれほど差し迫った危険性はなかったものの、市壁が建設されたという事実そのものが、帝国の現状を象徴する出来事であった。 このような事態をもたらしたの時代は、が四分治制()と呼ばれる統治方法を構築して一時的に収束する。 ディオクレティアヌスをはじめとする四人の皇帝は、それぞれ活動の拠点を地方都市に移したが、その結果、ローマ市は名目では首都であり続けたものの、実質的にローマの中心地ではなくなった。 テトラルキアによって建設された四つの首都の構造は、断片的な情報しかないものの、ローマの構成を模倣したものであったことが知られている。 ローマ市が、キルクス・マキシムスを見下ろす位置に(皇帝宮殿)を配置しているように、これらの首都においても皇帝宮殿の側に大競馬場が建設された。 これは後にローマ帝国の首都となるコンスタンティノポリスにおいても繰り返された。 このうち、最も多くの遺跡を見ることができるのは、の本拠地であったアウグスタ・トレウェノルム(現)で、コンスタンティヌスの浴場や、現在ではバシリカとして知られる皇帝謁見室などが残る。 それ以外の都市の遺跡はほとんどないが、ローマン・コンクリートによる独創的な造形が採用されていたと考えられる。 同時にまた、都市は強固な市壁によって防衛されており、その堅牢さはトレウェノルムのポルタ・ニグラから窺うことができる。 テトラルキアの首都ではないが、に、ディオクレティアヌスが隠棲するため建設したスパラトゥム(現)の大邸宅も、やはり軍事的な側面が色濃く、高い城壁と見張り塔によって防衛された閉鎖性の強いものであった。 内部の意匠はオーダーとアーチを繰り返し、コロッセウムなどの伝統的な手法を踏襲しているものの、やにアーチを挿入する手法などは、シリア特有の意匠で構成されている。 ローマ建築はヘレニズムに由来する伝統的造形に固執し続け、これはローマ市において特に顕著で、クリア(元老院)などの伝統的な建築物のほか、ディオクレティアヌス帝によって建設されたやにおいてなお健在であったが、後期のローマ建築は、概してローマン・コンクリートによる自由な造形を特徴とする。 トレウェロムやスプリトだけでなく、ローマにおいてさえ、やキルクスなど、ローマン・コンクリートによる革新的な造形の建築物が建設された。 ミネルウァ・メディカの神殿と呼ばれている、リキニウスによる宮殿庭園のパヴィリオンは、と同じく円形平面でドームを頂く建築であるが、内部はパンテオンのような厳格・静謐なものではなく、大きな開口部と壁面に半円アーチのニッチを有する動的なものとなっている。 ドームの構築に対する技術もパンテオンから大きく進歩しており、素焼きの陶器を埋め込んで軽量化するとともに、のロムルス神殿などでは曲率の異なる二重ドームを架ける工法が確立された。 末期ローマ建築と初期キリスト教建築 [ ] ガッラ・プラキディア霊廟 小さいが末期ローマの重要な建築物。 内部に美しいモザイクがある。 四分治制はローマ建築に新たな息吹を与えたが、このような体制はディオクレティアヌスの強力な手腕によって維持されたものであり、彼の死後、ローマ帝国は急速に安定を失った。 混乱の中で、がに打ち勝ってローマ唯一人の皇帝の座に着いたとき、ローマの政治体制は分権行政でなければ成り立たないほどに肥大化・分散化していた。 現実的選択として帝国は二つに分けられ、の死後、東はを、西はミラノ、後にを首都とする統治体制は統合されることはなかった。 その結果、経済的に恵まれた東方では、ローマ建築は新たな建築の道を開き、西方世界は歴史の荒波のまっただ中に放り出され、衰退することになる。 ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがある。 3世紀の危機の時代以降、すでにローマ帝国領では至る所で、などの東方宗教が信者を獲得したが、最終的に成功を収めたのが、コンスタンティヌスに協力したクリストス教()であった。 コンスタンティヌスがニコメディアで発した勅令(いわゆる)によってキリスト教が容認されると、ローマ帝国の領内ではいくつもの大教会が建設された。 当時のキリスト教徒は、ローマ建築が培ってきた様々なプラン、施工方法、技術から、あらゆる要素を任意に選択することができたが、彼らは教会建築として、ローマの世俗建築であったバシリカを多く採用した。 ただし、これらの教会堂にヴォールト天井のものは存在しない。 キリスト教徒にとって、ローマのヴォールト構造は世俗的で物質的なものだったらしく 、ヴォールトはかなり後の時代になってから採用された。 装飾についてもフレスコ画は使われず、光を反射させるによって壁の量塊を極力非物質化させる努力が払われた。 初期キリスト教建築は、東ローマ帝国の潤沢な資金と継承された高度な技術の中で成熟していき、にとして、その最も完成された姿を現すことになる。 東ローマの建築に対し、の分裂から西ローマ帝国の滅亡までの間、西方のローマ建築は、いわば喪失の時代であった。 西方属州に侵入したを、弱体化したローマ軍は掃討することができず、の国家基盤は早々に瓦解する。 の将軍の死によって、西ローマ帝国は蛮族に対抗する力を失い、にはのによってが陥落した。 その後、将軍の活躍によって、率いるの占領をなんとか阻止するものの、に率いるの侵略に抗いきれず、ローマ市は壊滅した。 ローマ建築の活動中心地は、すでに新たな首都ラヴェンナに移っており、その建築は現在でもラヴェンナにおいて見ることができる。 同時代の東ローマ帝国の建築活動に比べると、比較にならないほど小規模なものだが、その活動はの寄進によって、そして西ローマ帝国が滅びた後も、にが侵入するまで、、そして東ローマ帝国により継続された。 特徴 [ ] ローマ帝国では、ギリシア芸術古典的形態を保持することが慣例化しており、通常ローマ芸術とされるものの多くは、ギリシアの建築家・芸術家の作によるものである。 ギリシア芸術の権威は高く、新たな形態を導入するには、それを意図的に打開しなければならなかった。 そのなかで、新しい造形を生み出す助けとなったのが、技術革新とローマ特有の新しい施設の建設であった。 ローマの都市 [ ] 都市の建設 [ ] 共和政時代の前期から中期にかけて、ローマ市は隣接都市を吸収合併していったが、積極的に都市を建設することはしなかった。 当時のローマ市は領域国家としての性格を持たず、一定以上の領域の拡大が基本的には不可能であったこと や、エトルリア人入植地をはじめとする中央イタリアの都市(古カシリヌム(現サンタ・マリア・ディ・カプア・ヴェテレ)やなど)は碁盤目状の規則正しい都市構造を有すものが多く 、ローマ守備隊はこれを利用して駐屯すればよかったため、都市の建設を促すような積極的な要因はなかった。 しかし、ラテン戦争によってローマの勢力域が拡大すると、これらを軍事的に防衛し、かつ、社会的に統治する必要性が生じ 、ローマおよびラテン同盟都市によるの建設が活発に行われるようになった。 紀元前4世紀から紀元前3世紀にかけて行われた、初期の植民市建設の第一義的意義はローマの支配地域の防衛にあり、一般にローマ市民権を持つ人々は、(紀元前4世紀中期)、アンティウム(現、)、アルシウム(現、)、プテーオリ(現、)、サレルヌム(現、)など、沿岸部に植民市を建設し、ラテン同盟都市による植民は内陸部の防衛を主として設置された。 ネペト(現、)、ルケリア(現、)、ナルニア(現、)、アリミヌム(現、)、ブルンディシウム(現、)、ボノニア(現、)などのラテン植民市は、その当時の勢力域の辺境に集中的に建設されたが、これらの都市はラテン同盟の解消によってローマの軍制に直接組み込まれ、ローマの軍事的増強に寄与するようになった。 の後、にポンペイウス法が施行されると、において本格的なローマ化が始まる。 この時期になると、イタリア半島での植民市は軍事的な側面が薄れ、ローマの社会制度の導入、資本の投入といった社会的・経済的な側面が明確になってくる。 植民市の建設目的が具体的に何時頃から変化したのか、という点についてははっきりしない が、がの後に、もともと無産市民であった退役兵をアフリカ、シシリ、アカイア、マケドニアなどに植民させたように、共和制末期には軍事的な側面を持たない植民市の建設活動が行われている。 などは、に属した諸都市から大量の土地を没収してこれを退役兵に割り当て、クルシウム(現)、ファエスラエ(現)などの植民市を建設したが、彼は都市に割り当てられるトリブスに手をつけない代わりに、指揮下の退役兵を各地に大量に送り込むことによって、これらのトリブスをそのままスッラ支持のトリブスにしている。 ガイウス・ユリウス・カエサルも、北方属州にルグドゥヌム(現)とアウグスタ・ラウリカ(現)などの都市を新設し、スッラ同様に退役軍人を入植させて政治的な基盤とした。 また、対ギリシア戦で壊滅したコリントスに無産階級の市民8万人を入植させて再建しているが、これによってローマ市民への無料穀物配給を減少させている。 ローマの都市構造 [ ] トレウェロルム(現トリーア)の復元 整然と区画されたローマ特有の都市構造。 浴場などに隣接する、左手側を上下に貫く道がカルドである。 都市を新規に構築するにあたって、その計画を逐一立案するのはたいへんな労力と想像力を必要とするため、ローマは都市の構造を一定の原則に沿って構築した。 これは同時にローマの社会構造そのものをその支配地域に組み込む働きを担っており、属州のローマ化に対して大いに貢献することになる。 ローマの新設都市は、地中海東部に普及していた幾何学的な構造を有する、いわゆる「ヒッポダモス式都市計画」 の系譜に連なる。 ローマ人は、都市を一辺2400ペース 、100ヘレディア の正方形に整然と区画する手法を用いたが、さらに東西南北に大きな幹線道路を通している。 これは、都市建設に際して用いられた基軸となる測量線を道路に整備したもので、南北に通る大通りを「」、東西の大通りを「」と呼んだ。 デクマヌスは正確な語源は不明であるが、カルドは蝶番や軸を意味し、天空がこれを軸にして回転しているということを示す。 都市の創建者は儀式に則って、はじめにこの二本の軸線を決定し、都市の輪郭となる部分は鋤で土を掘り起こしつつ溝を切った。 この溝は「」と呼ばれ、都市を他と聖別する重要な溝であった。 測量技師は「グローマ」と呼ばれる機器を用いて測量を行い、都市を碁盤目状に区切っていく(これによって整形される街区を「インスラ」と呼ぶ)。 ポメリウムの内側には矢狭間を持つ市壁が建設され、デクマヌスとカルドの延長に四つの大きな城門が設けられた。 都市の中心にはムンドゥスと呼ばれる穴が掘られ、そこに供物が供えられた。 ローマの歴史家たちによれば、これらの儀式はローマ人がエトルリア人から教示されたものとされている。 実際に、都市建設の儀式で大地の神が重要視されていることや、都市を守護するカピトリウムの三室内陣を持った神殿は、エトルリア由来のものである。 都市の外部も正方形に区画されており、これらは農場として個人分配された。 しかし、都市が経済的要因によって膨張すると、幾何学的構造は失われ、まったく異なる形態の都市が形成された。 1世紀末に造営された植民市であるクイクルム(現)は、カルドとデクマヌスが通り、両道路の交差部分にフォルムを持つ都市であったが、2世紀に都市の人口が市壁内に収容できる限界を超えると、南に拡張された。 かつての南門は都市の新しい中心になり、市壁の外側にフォルムとセウェルスの神殿、バシリカが造られることになったが、新しい市街はそれまでの都市形態とは異なるものであった。 カルド・マクシムスはほぼそのまま延長されたが、旧市街の通りにあるような列柱廊は形成されず、デクマヌス・マクシムスらしき道路は直線ではなく、完全な曲線である。 概してその形態はフォルムを中心とする放射状で、旧市街ほど明確な構成を持っていない。 タムガス(現)もまた、1世紀末に建設された都市だが、やはり正方形のローマの伝統的な都市構成であった。 ティムガッドは、カピトリウムのある市壁の西側に都市が拡張され、セルティウス市場などが建設されたが、この新しい街も、クイクルムと同じく規則性を持っていない。 このように、繁栄を遂げた都市は、膨張するにつれて最初の骨格が不明瞭になっていく傾向にあり、また、ローマ帝国滅亡後に生き残った都市も、長い年月の間に碁盤目状の構成が失われ、迷宮化していくようになる。 周到に計画された都市構成が、都市の成長とともに混迷していく様は、首都ローマにおいても鮮明に現れている。 首都ローマの構造 [ ] 古代ローマ市(4世紀) 上の写真とほぼ同じ方向を見る。 右上がカピトリヌスの丘。 ここからコロッセウムまでの間にフォルム・ロマヌムとパラティヌスの丘、その向こうにキルクス・マクシムスがある。 フォルム・ロマヌムから右下に諸皇帝のフォルムがある。 写真下中央の大きな建物が、クイリナリスの丘のアウグストゥスの浴場。 ローマ市は、伝承によればに、によっての丘に築かれたとされる。 近年の発掘により、の丘の南西に、紀元前10世紀以前の数世紀に遡る居住跡が確認され、また、とパラティヌスの丘では紀元前10世紀の墓地が発掘されているため、この時期までに、ローマの地にいくつかの集落があったと考えられている。 紀元前9世紀頃になると、遺跡の数が増加し、墓地の場所もの丘に移ることから、居住空間が再配分され、人口が増え始めたことが示唆されるが、これらが一群の大きな集団であったかどうかは不明である。 紀元前8世紀末から紀元前7世紀前半になると、パラティヌスの丘のゲルマルス峰とパラトゥアリス峰に住居が発達し 、紀元前650年頃にはの丘との丘を分ける急流の排水工事によって、後に聖なる道(ウィア・サクラ)と呼ばれる道が開通する。 住居域はやとなる場所にまで拡大したが、ローマの都市化はなどの周辺村落よりも遅かった。 最初のフォルム、が整備されたのは紀元前7世紀頃で、発掘により、紀元前625年頃のティベリス川の洪水の後にコミティウムが舗装され、ほぼ同じ頃にと思われる建物も建設されていたらしい。 現在、目にすることのできるフォルム・ロマヌムで最も古い遺跡であるも、おそらくこの前後に設置されている。 紀元前7世紀末から紀元前6世紀末にかけて、ローマはエトルリア系の王を頂き、聖なる空間の整備や瓦葺きのレンガ造建築が建てられはじめ、この時期に、ローマが急速に都市化されていったことがわかっている。 フォルム・ロマヌムを中心として、カピトリウムからに抜けるウィア・サクラ、すなわちカルド・マクシムスと、アルギレトゥム通り、およびトゥスクス通りとなるデクマヌス・マクシムスが形成された。 この時期に都市を防衛する城壁()が形成され、7つの丘を包含する都市の輪郭も構成された。 とはいえ、城壁は人口密集地に沿って構築されたのではなく、フォルム・ロマヌム近隣の人口過密地域以外では、人はまばらに住んでいるだけであった。 当時、(牛市場)やキルクス・マクシムス(現)はすでに存在していたが、の丘からヴァティカヌス平原に至るは宗教的タブーによって開発されておらず、ローマ市から除外されていた。 また、テヴェレ川はあくまでも城壁の一部であり、都市は河川をまたぐ構造にはなっていなかった。 共和政時代を通じて、市街が拡張していくにつれて、フォルム・ロマヌム周辺にあるような整然とした都市は、徐々にその輪郭がわからなくなっていき、市中心部から放射状に抜ける道路にそって、蜘蛛の巣状の都市が形成された。 北に通じるラータ通りは市街を抜けるとになり、アウェンティヌスの丘のふもとから南西にが、カエリウスの丘(現の丘)のふもとから南にがそれぞれ抜けるようになった。 首都の人口が飛躍的に増大すると、ローマから明確な都市の構造は失われてしまうが、それでも都市の構造を明確にする意味から、共和制末期にフォルム・ロマヌムでは再建が行われる。 フォルム・ロマヌムは周囲を丘に囲まれ、雨水が溜まりやすい構造になっていたため、(巨大排水溝)が造営されていたが、これはヴォールトによって覆われ、敷石によって広場が形成された。 フォルムの軸となるヴィア・サクラ(聖なる道)はすでに古来のデクマヌスとはかなりずれており、東西南北に軸線を構成することは不可能になっていた。 このため、聖なる道を東西に通すことは諦め、代わりにへ向かう方向が設定されたが、その結果、聖なる道はフォルムの途中で著しく折れ曲がってしまった。 周囲のフォルム、神殿は、紀元前2世紀から帝政初期にかけて継続的に造営され、今日の姿になるまでに、実に200年近い時間を要している。 ローマ市の再構築を妨げていたのは首都の保守性であったが、一方で超過密状態も都市再建の大きな障害となっていた。 帝政初期の時代に、ローマ市の人口はすでに推定100万人を突破 しており、次第に共同住宅は高層化、ありとあらゆる土地に住宅が建て込まれたため、公共建築をたてるスペースは限られていた。 公共施設を訪れる人間も非常に多くなり、裁判もバシリカ(バシリカ・エアミリアとバシリカ・センプロニア)では対処しきれず、屋外で行われることが多くなった。 ユリウス・カエサルは、このような状況を打開すべく、当時宗教的タブーによって開発されていなかったに都市を拡張することをはじめ、の造営を開始した。 この計画はカエサルの死によって頓挫したが、対案としてオクタウィアヌスはの丘に住宅の建設用地を確保した。 しかし、エスクイリヌスの丘は市中心部から遠く、結局ローマの過密状態は回復することがなかった。 そのような状況の中で起こったのが、64年のである。 これはローマ市民とキリスト教徒にとっては災厄でしかなかったが、市街地が壊滅したため、ネロ帝と、恐らくは右腕として働いた建築家セウェルスは、ローマ市中心部の土地を没収し、これを再建することができた。 そしてその後、ローマ市中心には歴代皇帝によるフォルムが建設されることになるのである。 フォルムと行政施設、娯楽施設 [ ] フォルムと行政施設、およびカピトリヌス [ ] ローマ都市に必ず置かれた施設がフォルムである。 ローマ市もフォルムを中心に発達したし、フォルムさえあればそれは立派なローマ都市であった。 ローマ帝国の街道沿いには、フォルムと呼ばれる小さな集落も数多く存在した。 最初は商人が露店をひらくため、あるいは見せ物が行われるための単なる広場であったが、紀元前3世紀ごろに、ギリシアのから着想を得た列柱が導入されるようになった。 ただし、帝政初期の建築家ウィトルウィウスは、フォルムの列柱はアゴラのものとは作り方を変えなければならない、と説いている。 フォルムで催されるの競技が見えやすくなるように、列柱の幅は広く配置するべきというわけである。 帝政初期以降に建設されたフォルムはこの列柱が発達する傾向にあり、ローマ市中心部の諸皇帝のフォルムなどの影響を受けたフォルムでは、そのまま一つの街区がフォルムとなった。 いくつかの例外があるが、フォルムはカルドとデクマヌスが交差する都市中心部にあり、と、そして神殿が併設されていた。 フォルム・ロマヌムのクリア・ユリア 帝政初期に建設された元老院議場。 ユリウス・カエサルによって建設されたものを、ディオクレティアヌスが改築した。 バシリカは、悪天候の際に使われるもうひとつのフォルムとして、あるいは裁判所などに利用された。 クリアは、ローマ市ではの議場として機能したが、地方都市では(オルド・デクリオヌム)が用いるホールであった。 クリアはフォルムのなかでも一段と高くなるように設計されており、ウィトルウィウスによれば、立面は底辺の長さよりも高く設計しなければならないとされている。 多くのものは神殿のように飾られた玄関を持ち、とりわけ威厳のある建物であった。 カピトリヌス神殿も、大抵は地方都市ではフォルムの中かその付近に建設され 、北方属州では、これらの建物が完全に融合してひとつの建築となって街区を構成する、フォルム・バシリカ・神殿複合体と呼ばれる建築物が考案された。 この建築複合体は、後になど、に採用され、において最も完成された姿となった。 フォルムは都市の中心であったため、貴族や政務官、属州の長官はこぞってフォルムを飾り立て、3世紀に地中海経済が停滞するまで、どの都市のフォルムもたいへん豪華であった。 カピトリヌス神殿は、共和政時代まで、伝統的に、、に捧げられた神殿であったが、帝政がはじまると、次第にのための神殿に置き換えられていった。 ネマウスス(現)のは、カピトリヌス神殿として聖別された可能性の高い神殿であるが、これは共和制時代に特有の三神を祭る三室内陣を持たない構成である。 アグリッパによって寄贈されたものだが、後に彼に敬意を表して、皇位継承候補者となった二人の息子(と)を祭る神殿として利用された。 レプティス・マグナの帝政初期に建設されたフォルムでは、最も目立つ場所にアウグストゥスを祭る神殿が建設されているため、恐らくこれがカピトリヌス神殿になっていたと考えられる。 クイクル(現)のカピトリヌス神殿に祭られたのは女神であったが、この神はユリウス氏族の守護神で、神殿自体もローマ市のにあったウェヌス・ゲネリクトス神殿の完全な複製であり、に対する信仰を窺うことができる。 クイクルは後に市街が大きく拡張され、セプティミウス・セウェルスによって新たにフォルムが形成されたが、そこに建設された神殿はセプティミウス氏族を祭るものであった。 劇場、闘技場 [ ] テュレ(ティルス)の競技場 劇場と円形闘技場は、正方形に区画された都市に配置しにくい施設であるが、一般に、ローマ都市遺跡の中では最も保存状態が良い建築物である。 劇場は、ギリシア発祥の建築であることが明確であるが、はそのまま受け入れたわけではなく、ローマ人によって大きく修正された。 どちらの劇場も、観客席の前にオルケストラが設けられているが、古代ギリシアでは、合唱隊が動き回るためにオルケストラは円形に作られた。 というよりも、まず円形のオルケストラがあり 、これを客席が囲んでいたと表現できる。 客席の反対側に舞台背景となるスケネがあり、俳優が演技を行う非常に高い(3〜4m)高壇であるプロスケニオンが設置された。 これに対し、古代ローマでは戯曲に合唱隊は必要とされなくなったので、オルケストラは小さく、大抵は半円形である。 役者が演じるプルピトゥム(舞台)は、ギリシアのプロスケニオンよりも低く(1m以下)つくられている。 ローマ劇場で特に目を引くのは、ギリシア劇場のスケネとおなじ役割を担うフロンス・スケナエである。 フロンス・スケナエはギリシア劇場のスケネよりも大規模で、通常は3層で構成され、中央・両側の3つの扉を備え、重要人物は中央から、さして重要でない役は両側の扉から登場した。 恐らく小アジアで考案され、声優の声を観客席に届ける役割を果たしたフロンス・スケナエは、ローマにおいて洗練され、やがて西方に広がっていった。 ギリシア劇場は擂鉢状の土地にしか建設されなかったが、古代ローマでは平地でも劇場が作られ、大規模なものは露天であったが、オデイオンやアウディトリウムと呼ばれる小規模なものには屋根が架けられた。 (円形闘技場)は、や猛獣との格闘、調教された動物の見せ物などのために建設された施設で、現在、世界で400弱が知られている。 多くは円形だが、そうでないものもある。 また、劇場を改装したものや、劇場と兼用されたものもあった。 最も古い闘技場は、紀元前80年頃に建設されたポンペイのものである。 競技場()とおなじように、状の地形を利用して建設されているが、競技場とは別の施設としてカンパーニアで生まれたものと考えられている。 ローマ市では、剣闘士の競技はで行われるのが伝統であり、帝政初期になっても恒常的な建築として闘技場を構築するという概念はなかった。 しかし、ネマウススやアレラテ(現)、アウグストドゥヌム(現)など、他の都市においてこの建築物が成功をおさめたため、剣闘士競技が一般的になって300年が過ぎた後、によって、ようやく首都にふさわしい闘技場が起工された。 45,000人から55,000人を収容できたとされるアンフィテアトルム・フラウィウム(現)は、に連なるやや古くさいファサードを持つ建築物であるが、ローマ世界最大の闘技場であり、その施工には帝国の最も高い技術が集約されている。 最下層部は5つの回廊に囲まれ、その中央部(アレーナの下部構造)には、や剣士が通る通路や傾斜路、、管理人室などが構築されている。 (競技場)は、現在まで100程度が知られているが、客席は簡素な建築であったため、現在まで姿を留めているものは少ない。 外形が残るものは、レプティス・マグナとアッピア街道沿いに残るくらいである。 細長いトラックを持ち、「エウリプス」あるいは「スピナ」と呼ばれる中央分離帯を持つ。 短辺の一方は出走ゲートになっており、ラッパの合図とともにゲートが開き、各戦車が一斉に出走した。 大きさはまちまちだが、小さなもので長さ200m程度。 テッサロニキやシルミウム、アウグスタ・メディオラヌム(現ミラノ)などでは400mから500m程度である。 ローマのは最も大きく、長さ600m、250,000人を収容することができた。 アンフィテアトルムと違って、戦車競技は市民の娯楽として長く開催され続け、コンスタンティノポリスのキルクスは10世紀まで使われていた。 カラカラ帝のテルマエ [ ] ローマのテルマエ(共同浴場)は確かにローマ人が具体的な内部空間にいだいた関心のもっとも壮大なあらわれである。 巨大な皇帝浴場にはヴォールトやドームを架した多様な内部空間が存在するが、そればかりか、そこには、そのような諸空間を共にあわせて複合的グループを形成しようとする新しい願いも存在する。 このことが分化した機能的計画と関わりのあることは当然であるが、機能的図式だけで説明しうるものではない。 ポンペイのテルマエがいまだ諸空間を不規則に配置していたのに対し、ティトゥス帝のテルマエは南北方向を軸とした厳格に左右対称的な構成を示していた。 トラヤーヌス帝のテルマエにも十分発達した東西軸がみられる。 ローマの集住地のカルドーとデクマーヌスと類縁的なこの構成はカラカラ帝のテルマエとディオクレティアーヌス帝のそれにおいて繰り返された。 カラカラ帝のテルマエはコンクリート造のあらゆる可能性を開発した。 その遺跡は、今日でも雄大な計画であったことを示している。 外側の囲いはかなりなマッスの諸建造物で造られている。 北翼には事務所と住居があり、その中央には主玄関があった。 また南には、水槽とそれらに沿って観覧席とがあった。 後者は浴場の建物の前面で行われる競技を見物するためのものである。 競技場の軸は東西の大エクセドラによって支持されている。 ローマン・コンクリートと建築のプレハブ化 [ ] ローマン・コンクリート [ ] テスタケウム(左側)とレティクラトゥム(右側)によるオープス・コンポシトゥム ローマ建築の構造体を考える上で重要な工法は、現在、や古代コンクリートなどと呼ばれているものである。 ただし、これは今日用いられているとは全く別の組成で、を焼き、水和反応によって固化()するものである。 粗骨材を割石とするものを、カエメンティキア・ストゥラクトゥラ 、あるいは「オープス・カエメンティキウム」と呼ぶ。 特に、イタリア半島中央部で産出される、現在ポッツォラーナと呼ばれている砂(科学的には砂ではなく、を多量に含む沈殿物)と混ぜると、高い強度をもたらすことが知られている。 ローマの構造体は表面の石や煉瓦の積み方によって分類され、外装を乱石積みとするものを「オープス・インケルトゥム」、石で編み目のように構成するものを「オープス・レティクラトゥム」、煉瓦で構成するものを「オープス・テスタケウム」、煉瓦と石の混成積みであれば「オープス・ミクストゥム」などと呼ばれる。 このうち、内部をモルタルと骨材(カエメンタ)による充填材で成立させているものが、今日ローマン・コンクリートと呼ばれているものである。 ローマン・コンクリートは最初にカンパーニアで壁材として用いられ、ポンペイにはからのものと思われる石灰石との混成壁が発見されている。 ローマ市でも、早ければ紀元前3世紀後半には導入されたと考えられる。 オープス・インケルトゥムと言える構造は、ポルティクス・アエミリアにおいて、の建設時か、あるいはの再建時において導入されたらしい。 オープス・レティクラトゥムは紀元前2世紀末に登場し、紀元前117年に建設されたフォルム・ロマヌムのラクス・イントゥルナエで用いられた。 オープス・テスタケウムも紀元前2世紀頃に導入された。 共和政初期のローマン・コンクリートは強度にばらつきが多く、混和剤の調合量やポッツォラーナの比率などは経験(と、かなりな部分は運)に頼っていたようである。 しかし、長期に渡る経験と試行錯誤によって、共和制時代の末期までには、ローマン・コンクリートはある程度、安定的な運用を可能にしていた。 それでも、に起工したアグリッパの水道橋のように、施工後十数年でそのほとんどを改修しなければならない場合もあったようである。 初期帝政時代には、ポッツォラーナはプテーオリ(現)から船積みされて輸入されるまでに至り、また、石切り場によってはこれと同等の強度を示す砂を手に入れることができることも発見された。 このことは、ウィトルウィウスの『建築について』の中で指摘されている。 とはいえ、共和制時代には単にコストの問題で使用されるに過ぎず、採用される建築も倉庫や闘技場、浴場など、比較的新しいタイプのものか、伝統的な神殿建築の基礎部分など、人目に触れない部分に限られていた。 構造や、これを連続した構造はローマン・コンクリートが最も得意とする造形であったと思われるが、ローマ建築に固持されていたギリシア建築の持つ権威は高く、水平梁がアーチに変わるまでには時間を要した。 ローマン・コンクリートが新しい建築的表現を獲得するために採用され、その建築技術を余すところなく見せ始めるのは五賢帝時代、特にトラヤヌスとハドリアヌスの時代である。 ローマン・コンクリートによる造形は、ギリシア建築ではなし得なかった巨大空間を作り出すことに成功し、では、その雄大な内部空間を実感することができる。 煉瓦および外装材 [ ] ローマ時代の煉瓦に施された刻印 焼成前にスタンプが押され、これによって生産場所や生産年がわかる。 共和政末期になると、ローマン・コンクリートはあらゆる建築に採用されるようになったが、当初は割栗石を積み上げただけの不規則なもので、その上に漆喰を塗って済ませていた。 やがて、表面の仕上げもかなり意識されるようになり、凝灰岩を噛み合わせるオープス・レティクラトゥム、そして帝政初期にはオープス・テスタケウムが採用されるようになる。 煉瓦と凝灰岩を交互に重ねることも行われており、これはコストを安くあげるための措置であった。 建築に煉瓦が採用されるようになると、ローマ郊外では煉瓦を多量に生産する工場が建設された。 ローマ建築をささえたのは、このような建設資材の安定的な供給と流通経路の整備である。 ローマの建築資材はほとんどのものが規格化されており、共和政末期には煉瓦などは大規模な工場で生産・備蓄され、基準寸法と数量による発注と配達が行われていた。 大理石は、共和制時代にはギリシア、エジプトから輸入される希少資材だったが、ティベリウス帝によってイタリア各地の石切り場が開設され、煉瓦と同様、大量生産のシステムが確立された。 大理石円柱の寸法は規格化され、事実上、プレハブ化されたので、他の建築から同じ規格のものを移築することもできた。 住宅建築 [ ] インスラ(多層型共同住宅) オスティア市のディアナの家を復元したもの。 ローマの典型的な住居建築は、中央の(中庭)に開かれた平屋建ての都市型住居でギリシア起原の、多層型共同住宅である、郊外型の住宅であるの3種に分けられる。 比較的裕福な人々はドムスを構えることができたが、都市部では圧倒的に賃貸型のインスラにすむ人々が多く、現代でもみることのできる古いヨーロッパの町に似た風景が広がっていた。 ヴィッラは郊外や避暑地に建設される邸宅で、上流階級の人々のみ得ることができた。 ただし、公共建築に比べると、住宅のような私的建築物は地方色がたいへん強く、地中海から離れるほど、その土地の伝統的形式で建てられたと言って良い。 例えば、ガリアの住宅は基本的に質素なもので、ローマの基準からするとほとんど小屋と言って良い。 イギリスで発掘された住宅などは、地中海方面の住宅建築とは全く異なり、ほとんどの場合、中庭はない。 人口密度が低かったことに起因するらしいが、住宅は庭に囲まれた建物でベランダを持ち、各部屋へはこのベランダを介して行き来していた。 主要建築物 [ ] ここでは、現存するか、あるいは上部構造がある程度残っている建築物を挙げている。 基礎構造しか残っていないものや、構造および内部空間を把握できないものは対象としていない。 かっこ内は、設計者、建築物のある都市、建設された年代。 現〜と表示しているものは、現在の名称。 共和政ローマの建築 [ ] テッラチーナのユピテル・アンクスル神域• ユピテル・アンクスル神域( 紀元前2世紀から紀元前1世紀)• アテナイのオリンピエイオン再建(コスティウス設計(基本設計) 紀元前176年から165年起工・紀元132年完成)• ヘラクレス・ウィクトル神域( 紀元前1世紀)• アウグスタ・エメリタのローマ橋( 紀元前85年頃完成)• ティヴォリのウェスタ神殿(ティヴォリ 紀元前80年頃完成)• ポンペイのアンフィテアトルム( 紀元前80年頃完成)• プラエネステのフォルトゥナ・プリミゲニア神域( 紀元前80年頃完成)• カピトリヌムの( 紀元前78年完成)• ポンペイ市街再建(ポンペイ 紀元前63年のヴェズヴィオ火山の小噴火により起工・79年ヴェズヴィオ火山の大噴火により市街放棄)• ファブリキウス橋(ローマ 現ファブリチオ橋 紀元前62年完成)• (アテネ 紀元前48年頃完成)• の(ローマ 紀元前1世紀頃) 帝政前期のローマ建築 [ ] 仏• の(ローマ 紀元前36年完成)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 紀元前30年頃完成)• アリミヌムの( 紀元前27年完成)• アウグストゥス記念門( 紀元前25年完成)• (ローマ 紀元前13年)• カイウス・ケスティウスのピラミッド(ローマ 紀元前12年頃)• (ローマ 紀元前13年頃起工・11年頃完成)• ウェロニアのアンフィテアトルム( 現 紀元前27年紀元後30年)• レプティスのマケルム( 紀元前8年完成)• レプティスの劇場(レプティス・マグナ 1年完成)• ネマウススのメゾン・カレー( 1年起工・10年頃完成)• フォルム・ロマヌムの再建(ローマ 6年頃完成)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 12年完成)• アウグスタ・タウリノルム市街門( 現ポルタ・パラティーナ 16年頃起工)• ネマウスス市街門(ニーム 現ポルト・ドーギュスト 16年頃起工)• アロジオのティベリウスの記念門( 20年頃完成)• パルミラのバアル神殿( 32年完成)• (フランス 50年頃)• (ローマ 52年完成)• (セウェルス設計 ローマ 64年頃起工・70年頃完成)• アレラテのアンフィテアトルム( 75年頃完成)• アンフィテアトルム・フラウィウム 通称コロッセウム(ローマ 現コロッセオ 70年頃起工・90年頃完成)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 81年以降完成)• の(ラビリウス設計 ローマ 92年完成)• の(ローマ 96年起工・97年完成)• 皇帝たちのフォルムの(ローマ 1世紀末完成)• オスティア市街再建( 1世紀後期から2世紀初期)• タラコの水道橋( 1世紀後期から2世紀初期)• (ダマスカスのアポロドーロス設計 ローマ 104年起工・109年完成)• 皇帝たちのフォルムの(ダマスカスのアポロドーロス設計 ローマ 112年頃完成、ただし記念柱は107年〜113年頃、バシリカ・ウルピアは98年から112年頃完成)• ヒスパリスの水道橋( 2世紀初頭完成)• エフェソスのケルスス図書館( 117年起工・120年頃完成)• (ローマ 118年起工・125年完成)• ハドリアヌスの長城( 122年起工・125年完成)• エフェソスのハドリアヌス神殿(エフェソス 117年起工・138年完成)• ティヴォリのハドリアヌスのヴィッラ(ティヴォリ 118年起工・125年完成)• レプティス・マグナのハドリアヌスの浴場(レプティス・マグナ 123年完成)• アテナイの(アテネ 131年頃完成)• アテナイの(アテネ 132年完成)• ハドリアヌス廟堂(ローマ 現サンタンジェロ城 139年頃完成)• ペルガモンのアスクレピオン( 140年頃起工・175年頃完成)• (ローマ 現サン・ロレンツォ・イン・ミランダ聖堂 141年起工)• アントニヌスの浴場( 143年完成)• (ローマ 176年起工・193年完成)• ユピテル・ヘリオポリタヌス神殿(バールベック 2世紀中期起工・210年代完成)• タムガスのトラヤヌス記念門(ティムガッド 2世紀後期〜3世紀初頭) 帝政後期のローマ建築 [ ] リキニウスのパヴィリオン(ミネルヴァ・メディカ神殿)• サブラタの劇場(サブラタ 180年頃完成)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 203年完成)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 205年完成)• レプティス・マグナのバシリカ(レプティス・マグナ 216年完成)• (ローマ 217年完成)• ローマ市壁(ローマ 現 275年完成)• ガレリウス墓廟( 現アギオス・ゲオルギオス聖堂 293年起工・311年に建設放棄)• ディオクレティアヌス大邸宅(スプリト 300年頃起工・305年完成)• (ローマ 309年頃完成)• コンスタンティヌスのバシリカ(ローマ 現 312年頃完成)• (ローマ 312年起工・315年完成)• アウグスタ・トレウェノルムの市門(トリーア 現 4世紀初頭)• アウグスタ・トレウェノルムのバシリカ(トリーア 4世紀前半)• リキニウスのパヴィリオン 通称ミネルウァ・メディカ神殿(ローマ 4世紀前半)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 307年起工・313年頃完成)• フォルム・ロマヌムの(ローマ 313年起工・315年完成)• サン・ピエトロ大聖堂(ローマ 329年完成)• コンスタンティア廟堂(ローマ 現サンタ・コンスタンツァ聖堂 350年頃完成)• ウァレンス水道(イスタンブール 378年完成) ローマ建築の研究 [ ] ローマ建築の研究は、建築が美術のひとつの分野として考えられるようになった、の時代に始まる。 ルネサンスの芸術活動は、古代美術こそが真に美しいとする観点に立脚するものであるが、が「ローマ人についていえばノ(中略)ノ彼らはあたかもローマの様式をあらゆる様式のうちで最高のもの、否むしろ最も崇高なものにしようとして領土内のあらゆる地域から美しいものを探し出し、それをひとつの様式にまとめ上げたといえるだろう」 と述べているように、特に古代ローマ美術こそが古代美術の完成と考えられていた。 また、この時代にギリシア建築は全く知られておらず、古代の建築とは、すなわちローマ建築であった。 ルネサンス最初の建築論であり、以降の古典主義建築に大きな影響を与えたの理論書『De Reaedificatoria』(頃に著され、出版)は、古代ローマの建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポリオが残した、最古の建築書『De Architectura』を基本として書かれたものであるが 、この建築書はアルベルティ以降も、や、らを通じてその解析が続けられた。 一方で、古代ローマ時代の遺構の実測調査や、古代文献の研究も進められたが、当時の研究目的は、あくまで建築設計における問題を解決するためのもので、やラファエッロといった盛期ルネサンスの芸術家、そして、たちマニエリストの活動が物語るように、その建築活動はローマ建築に様々な意匠を見出し、これを設計に導入して新しい意匠を開拓すること、計画された建築物の価値を正当化することにあったと言える。 このため、今日では一般的となっているローマ美術の様式上の区分について、ルネサンスの芸術家たちはほとんど意識していない。 ウィトルウィウスが著書において建築に導入している音楽的な調和比例は、ルネサンスの時代に建築における至上の美とみなされ、からに至るまで、建築の研究はウィトルウィウスから導かれるオーダーの比例原理に関するものであった。 しかし、17世紀に、フランスの建築アカデミーにおいて、こうした調和比例がはたして本当に美を生み出すのか、という疑念が生まれる。 建築家は、『Ordonnances des Cinq Especes de Colonne』(1676年)において、ルネサンス以来の調和比例が美を生み出すという理論には根拠がなく、単純な整数比例が美しいという意見や批評が繰り返し与えられることで、これを美しいと錯覚するようになるのではないかと主張した。 これに対し、建築アカデミー教授であったは、比例原理こそが建築美を生み出す基本的な原理であると反論したが、によるローマ建築の実測調査図面『Les edifices antiques de Rome』(1682年)によって、実際のローマ建築の比例は多様であり、ルネサンス的整数比例などというものはほとんど存在しないということが明らかとなった。 ブロンデルをはじめとする保守派は、遺跡のなかに比例原理が見られないのは、高いものを見上げた場合など、比例の見え方が通常とは異なるために、最初から比例に補正を加えたものであると主張したが、ルネサンスの調和比例による世界観は大きく動揺し、やがて比例原理が建築の美を決定するという考えは放棄されることになる。 18世紀になると、の『Entwurf einer historischen Architektur』(1721年)(『歴史的建築の構想』)やの『Geschichte der Kunst des Altertums』(1764年)(『古代美術史』)など、ドイツ・オーストリアにおいて近代的な美術史・建築史の研究が始まる。 美術史・建築史は、それまでのバロック、ロココ芸術の嫌悪と反感によって生まれるが、からまでのドイツ建築史の発展は、古典建築よりも(今日ではと呼ばれているものも含む)の研究によってなされ、イギリス、フランスにおいても、この傾向はあまり変わらず、ローマ建築に対する建築史からの研究はあまり行われなかった。 また、18世紀中期にが始まると、建築の根源が議論される過程で、ギリシア建築の詳細な調査が出版されるようになり 、ギリシア建築がローマ建築よりも古く、純粋であると考えられるようになった。 特にヴィンケルマンは、『ギリシア美術模倣論』(1755年)において、当時のヨーロッパ文化を退廃・堕落したものとみなし、古代への回帰を訴えたが、古代美術がすべて均質で完成されたものとは見なしておらず、最も優れた美術はからまでのギリシア古典期の美術であると考えた。 古代の美術、特に彫刻が末期に向かうにつれて衰退していくということは、すでにルネサンスの時代にも認められていたが、彼は古代美術の衰退期はもっと早く、の死後(すなわちヘレニズム美術以降)にすでにその後退が始まり、従ってローマ美術は、ギリシア芸術のであると考えた。 ルネサンスの時代に生み出された、芸術が衰退と退廃のサイクルを繰り返すという考え方は、ヴィンケルマンによって非常に印象的なものとなるが、哲学において大きな足跡を残すことになるにも、この影響が見られる。 ヘーゲルは、芸術とは自己理解を行うために必要な役割を担うものであり、芸術の形態は自己映像に応じて変化していくものであると考えた。 彼によれば、芸術は歴史的に3つの段階、つまり象徴的芸術、古典的芸術、ロマン的芸術に分類され、それぞれエジプト・インドなどの東方の芸術、ギリシア・ローマの芸術、キリスト教・ゴシック芸術(現在ロマネスクと呼ばれるものを含む)がそこに含まれるとされる。 ローマ建築は古典期芸術に含まれているが、厳密にはギリシア建築とキリスト教建築の中間形態であり 、ギリシア建築が合目的性に徹し、単純かつ高貴であるのに対し、ローマ建築は様々な目的を持ち、私的な場にも建築美が要求されるが、贅沢で上品さに欠けると考えた。 ただし、ヘーゲルにとって、建築の分野は主な関心事はなく、彼の建築に対する考え方は、の『Die Baukunst nach der Grundsatzen der Alten』(1809年)に負うところが大きい。 現在、古代ローマは、政治学・法学・経済学など、様々な観点から研究が行われており、建築についても、都市遺跡の発掘 や碑文の解析によってある程度の情報が得られている。 しかし、木材による架構や建築装飾など、考古学的に解明できない部分は多く、ローマ人が建築の美学をどのようにとらえていたかという根本的な問題ですら、ウィトルウィウスの『建築について』がほとんど唯一の情報源である。 それも、ローマ建築においてどのような位置づけであったのかは分かっておらず 、例えば、ウィトルウィウスの言う意味での建築家(建築家と呼ばれる職業があったことは、碑文などから明らかである)という職が成立していたのか、成立したとすればそれは何時のことか、といったことは明らかでない。 脚注 [ ] []• パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 170)。 ただし、ローマ建築の導入には長い時間を要したものの、最終的にはヘレニズムの建築的伝統をも変質させ【Sear(1983)p. 231】、東ローマ帝国において独自の発展を遂げることになる。 グリマル(1990)(北野1995 p. 古代ローマの主要な建築的特徴は、これらの地域に建設された都市において生み出され、洗練されたもので、W. マクドナルドはローマ建築を「都市の建築」と評している。 MacDonald(1988)p. パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 23)。 四分統治の中心となったのは、それぞれ、、、である。 テトラルキアが終焉を迎えると、東西の中心都市として、が開発される。 ただし、現存するカロリング朝建築(9世紀)はローマ建築との連続性を感じさせる。 これはの賜物であるが、その後の混乱の時代にローマ建築の遺産は完全に失われる。 ペヴスナー(1943)(小林・山口・竹本1993 pp. 39-50)。 も参照。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 6-7)• Sear(1983)p. ギリシア神殿には階段状の土台であるクリピーソーマがあるが、エトルリア、ローマのポディウムは階段ではなく垂直性の高い土台であり、これは同時代のギリシア建築にはない形態で、エトルリア建築と初期ローマ建築の繋がりを示す証拠となっている。 また、カピトリヌスの神殿跡からは、エトルリア式のテラコッタ装飾(エトルリアの有力都市であるの様式)も発掘されている。 Boethius(1992)pp. 106,110。 イェシュタード(1973)(浅香1983 pp. 108-109)。 Boethius(1992)pp. 114-120• 青柳(1997)pp. 195-198。 バンディネッリ(1969)p146。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 12)。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 10)。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 23)。 青柳(1997)p. 133、執筆者:渡辺道治「ローマ建築」• パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 24-28)。 バンディネッリ(1969)pp. 148-151。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 30)。 有力市民層による建築活動は、彼らが自らをアピールするために建築物に据えた碑文から明らかである。 自らの業績だけでなく、皇帝の偉業や都市の出身者の成功を祈念して建設される記念建築物もあった。 ケッピー(1991)(小林・梶田2006 pp. 99-107)。 現在のローマにおいても、沿いにあり、ガイウス・ユリウス・カエサルとを組んだの妻であるカエリキア・メテッラの墓廟や、行政官ガイウス・ケスティウス・エプロのピラミッド(墓)を見ることができる。 有力な個人による指導体制は共和政末期にすでに形成されており、やも、カエサルと同じように建築活動を主導した。 グリマル(1990)(北野1995 p. 40)。 スッラは門閥派強化のため、民衆派の集会場であるのコミティウムとこれに付随する記念物を埋め立て、全面に石灰華で舗装した。 また、の再建計画を実施し、フォルム・ロマヌムを見下ろす位置に、現在も一部が残るタブラリウムを建設して権力を誇示した。 一方、民衆派となったポンペイウスは、の開発に着手し、ローマで最初の恒久的な劇場となるや、後にカエサル暗殺の場所となるポンペイウス回廊など、市民の娯楽や憩いの場となる建物を建設した。 青柳(1997)pp. 242-243、「共和政末期から帝政の確立へ」。 アウグストゥスは、皇帝という位を新たに創出したのではない。 の称号は共和制時代に有力者の称号としてすでにつかわれていた。 彼の権力の最終的な法的権原は、1. 上級属州総督命令権(に対する命令権を集中的に保持。 本来、属州総督命令権はローマ市およびその周囲1マイル内に居る場合は権原がないが、これも元老院議決によりローマ市内でも発動することができるようになった。 )、2. 護民官職権(神聖不可侵権、訴願者救済権、元老院議決拒否権などのの職能のみを保持。 職権のみを保持するため、同僚護民官の干渉を受けない。 )、3. 終身執政官命令権(の命令権のみを保持。 これについても、職権のみを有するため、執政官の干渉を受けない。 )であるが、これらはいずれも共和制時代のそれに比べるとかなり逸脱したものであるものの、独裁官のような非常大権とは言えない。 このため、アウグストゥスの政治体制を共和制の復活ないしは元老院との二元支配と見るか、あるいは第一人支配と見るかは諸説あり、古代においても、歴史家の評価は分かれていた。 は、彼を「アウグストゥスの実力は新しい国法的秩序へと結晶することを自ら抑制し、ノ伝統的な共和政的国政のなかに身を潜めた」と評している。 弓削(1966)p. 211。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 45-48)。 スエトニウス(国原2007a p. 124)。 スエトニウス(国原2007a p. 214)。 青柳(1997)pp. 249-250、「共和制末期から帝政の確立へ」• 現在、モンテチトリオ宮殿の正面に建っている。 アウグストゥスの誕生日である9月23日の日の出に、このオベリスクの影がアラ・パキスを指すように設計された。 青柳(1997)p. 247、「共和制末期から帝政の確立へ」• 青柳 1997 p. 264、「共和政末期から帝政の確立へ」• 短い記述ではあるが、この宮殿の仕掛けの数々は、スエトニウスが記述している。 スエトニウス(国原2007b p. 166)。 小佐野(1993)pp. 39-40。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 80-83)およびSear(1983 pp. 98-102)。 この法によって、ウェスパシアヌスはそれまでの皇帝と同じように、多くの法に拘束されないことを保証される。 さらにこの法は、ウェスパシアヌスが国家の利益に関する全事項を行うことができるという権限を含むものであった。 の東側に位置する。 現在のフォーリ・インペリアーリ通りとカヴール通りの交差点一帯にあたり、一部の遺構を目にすることができる。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 69)。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 69-70)。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 85-90)。 ペヴスナー(1975)(鈴木1995 p. 18)。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 93)。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 70)。 記念柱については、太田(1995)pp. 15-21。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 93-97)。 ()には、国境を示すいわゆるが残る。 異民族の侵入を防止するとともに、これ以上領土を拡大しないという意思表示であったとされる。 内部円堂の直径と、中央部の天井(天窓)までの高さは等しい。 また、その円に内接する正方形の一辺の長さと、円堂下層のオーダー上部にあるから中央部の天井までの高さも等しい。 さらに、この建物は細部にも比率関係が認められ、その比率は4・8・16・32で成り立っている。 ドームに認められる方形の凹部がそれである。 これは、ドームの重量自体を軽減する働きを持つほか、コンクリートを均等に乾燥させる効果もある。 また、凸部をリブとして考えるならば、構造を補強するものと見なすこともできる。 ティベリウスは皇帝に即位する前はロードス島に、晩年はカプリ島に隠棲しており、それぞれにヴィッラを構えていた。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 114-121)。 Sear(1983)pp. 235-236。 ヘレニズム世界には、すでにバシリカにあたる建築物である、フォルムにあたるがあった。 そもそも東方では、生活習慣の変化がたいへん緩慢であったので、ローマ式の公共施設を導入する必要性を得なかったと考えられる。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 p. 173)。 例外的にアルカイック期の代表的な建築のひとつであるアポロン神殿が残る。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 182-183)。 皇帝権力の権原は、歴史学者が(元首政)と呼んだものから次第に変質していき、3世紀後半になると、皇帝は唯一の立法者であり、かつ法に拘束されないとする専制君主化、すなわちと呼ばれる存在となる。 また、神のもとに帝権が置かれるという考え方は、キリスト教が国教となると、皇帝は地上における神の代理人として神聖視されることになる。 弓削(1964)pp. 259-260。 帝政前期の都市参事会員は、都市建設に積極的に参画し、しばしば私財を投じて都市を記念碑で飾り立てた。 しかし、3世紀にすべての一般市民に人頭税が課せられ、都市領域の徴税義務を都市参事会員が負うことになると、租税の不足分は参事会員が私財で補填することになっていたため、有力者は都市参事会員になることを忌避し、逃亡することすらあった。 ディオクレティアヌス帝はこの身分を固定化し、ユリアヌス帝、ウァレンティアヌス帝らは法を発して都市参事会員の負担を軽減し、弱体化を食い止めようとしたが、都市参事会員は没落には歯止めがかからず、建築を含む文化活動に対する主体性を失う。 弓削(1964)pp. 278-279。 ブラウン(1988)(宮島2006 pp33-34)• 3世紀中葉になると、軍隊の指揮は元老院議員ではなく、叩き上げの軍人が行うようになり、その動員数も60万人に上った。 軍を維持する国費を補填するため、増税と徴税官の増員、官僚組織の強化が行われた。 ブラウン(1988)(宮島2006 pp18-19)• パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 215-219)。 しかし、サンタ・コンスタンツァ聖堂やサント・ステファノ・ロトンド聖堂など、宮殿やパヴィリオン、霊廟に見られる集中形式の建築物も、主に殉教者記念礼拝堂などで採用されている。 また、アンティオケイア大聖堂や、カッパドキアのナジアンゾス聖堂のように、多数の信徒を集めなければならなかったはずの大聖堂が集中形式として建設されたものもある。 ペヴスナー(1943)(小林・山口・竹本1993 p. 23)。 岩井(2000)p. ギリシア人の建設したヘレニズム諸都市(ポセイドニア(現パエストゥム)、ネアポリス(現)など)なども同様で、これらの都市にはローマ人入植者が送られた。 一方、北部イタリアからガリアにかけての都市(都市というよりは町か村落であるが)には一定の都市構造はなく、多くはアクロポリスを持ち、崖や山などの天然の防衛設備が備わった城塞型の構造で、街路は不規則に配置されていた。 グリマル(1990)(北野1995 p. 23)。 岩井(2000)pp. 153-154。 岩井(2000)p. 135。 植民市の性格の変化について、E. サーモンはグラッスス改革以後のこととするが、著者はこれを紀元前3世紀前半とする。 弓削(1966)pp. 126-129。 弓削(1964)pp. 19-20。 パーキンズ(1979)(桐敷1996 pp. 128-129)。 ギリシア人建築家ヒッポダモスが考案したとされる都市計画。 ヒッポダモス式はをはじめ、、などのイオニア地方の都市、アテナイの外港ペイライエウス(現)などで採用された。 pes。 長さの単位。 1pesは約29. 5cm。 heredium。 面積の単位。 1herediaは約50ha。 マコーレイ(1974)(西川2004 p. 16)。 マコーレイ(1974)(西川2004 pp. 33-35)。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 12-18)。 MacDonald(1988)pp. 5-9。 ただし、ジェミラの旧市街は街区が明確なグリット・パターンを示しておらず、都市の範囲はいびつな台形となっている。 平和な時代には市壁が無用の長物であったためか、市壁が建設された痕跡はない。 MacDonald(1988)pp. 25-30。 コンスタンティノポリス(現)、など。 それでも、ローマ時代の地図と比較すると、いくつかの街路はそのまま引き継がれている。 リーウィウス(鈴木2007 pp. 25-26)。 グランダッジ(2003)(北野 2006 pp64-69)。 先史時代の人間の痕跡が確認され、の丘の麓から紀元前17世紀の土器の破片が発見されたため、この時代から小規模な集落が存在したらしい。 紀元前9世紀頃からローマが広がりを見せることは確実であるが、集落の規模が相当巨大なものであったか、未だローマ市として統一されていなかったと見るかは論争があり、決着していない。 イェシュタード(1973)(浅香1983 pp. 23-26)。 これらの村落で発掘された土器および装飾品には、様々な差異が認められる。 しかし、類似するもの、あるいは全く同じものも発見されており、相互の接触があったことは明らかである。 イェシュタードは、ロムルスによって構築されたとされる都市の境界は存在しないとし、これらの村落が共同体として存在したような形跡がみられないことを示唆したが、今日の発掘により、パラティヌスの丘の麓で市壁と思われる構造物が発掘され、パラティヌスでは比較的まとまった集落が構成されていたことが伺える。 グランダッジ(2003)(北野 2006 pp70-71)• これまでの説では、ローマの都市創建はロムルスが王となった頃ではなく、このフォルム・ロマヌムが整備された紀元前7世紀末から紀元前6世紀中期とする見解が主流であった。 イェシュタード(1973)(浅香1983 pp. 41-49)、長谷川岳男・樋脇博敏(2004)p93。 しかし、紀元前8世紀の市壁と思われる遺構の発掘によって、ロムルスによる都市創建の伝承は何らかの事実を反映しているとする説もある。 グランダッジ(2003)(北野 2006 pp. 70-71. pp85-86)。 タルクィヌス・プリスクス以降の王はエトルリア系でるが、従来はエトルリアによる王制、すなわちローマがエトルリアに支配されていたとする考え方が有力であった。 ローマの都市化もエトルリア支配による影響と考えられてきた。 しかし、今日ではローマ文化の形成において、エトルリアの影響は従来説よりも相対的に低く評価される傾向にあり、エトルリア人による支配はなく、単にエトルリア出身者が王になったにすぎないとする考えもある。 グランダッジ(2003)(北野 2006 pp. 95-98)。 いずれにしても、この時期にエトルリア出身のタルクィヌスが王となり、ローマの都市構成が変革を迎えていることは確かである。 グリマル(1990)(北野1995 p. 32)。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 31-37)。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 38-40)。 最盛期のトラヤヌス帝時代には、推定約120万人の巨大都市となる。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 40-42)。 ウィトル-ウィウス(森田1992 p. 113)。 つまり、コロッセウムが完成するまでの間、ローマでは剣闘士の試合はフォルムで行われていた。 最も古い記録は、紀元前264年にで行われたものである。 バシリカは基本的には多目的ホールに近い。 詳細はを参照。 ウイトル-ウィウス(森田1992 p. 118)。 例外もあり、ティムガッドでは城壁外の丘の上に建設されている。 また、属州ブリタンニアでは、フォルムに神殿を建設することは希である。 このような状況が生まれた原因はよくわかっていないが、ローマ人入植以前の信仰に遡るものと考えられる。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 57-61)。 オルケストラの中心には、テュメレ(祭壇)がある。 古代ギリシアでは、演劇は単なる娯楽ではなく、宗教と密接に結びついた儀式であった。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 66-74)• MacDonald(1988)pp. 111-114。 アウグスタ・ラウリカ(現アウグスト)、キュレネ、ペルガモンは劇場を闘技場に改造している。 2世紀に建設されたルテティア(現)は劇場が闘技場と兼用された。 サルヴァドリ(土居1991 p. 24)。 Sear(1983)pp. 135-145。 グリマル(1990)(北野1995 pp. 74-80)• など、その形状が広場として残っているものもある。 MacDonald(1988)p. 117。 ウィトル-ウィウス(1979)p. ウィトル-ウィウス(森田1992 pp. 43-44)。 ローマ人は、構造の区別を壁面の仕上げ方法によって区分しており、今日のように工法で区分している訳ではない。 従って、コンクリート工法と呼べる構造のほかに、今日ではに分類される工法にも同じ呼称が用いられた。 例えば、「オープス・テスタケウム」は、仕上げ兼用のとして煉瓦が用いられているコンクリート造もあれば、単なる煉瓦造である場合もある。 また、煉瓦のつなぎ材はモルタルであるが、このモルタルに相当する呼称も存在しない。 ローマン・コンクリートは便利な呼称であるが、ローマ人は、構造体に対して現代人とは違った考えを持っていたということについては注意する必要がある。 Sear(1983)p. Sear(1983)pp. 74-75。 ヴァザーリ(2009)p. 1760年代に至るまで、ギリシア建築はほとんど知られておらず、18世紀の造園家・建築家であるバティ・ラングレイは『A Sure Guide to Builders』(1721年)において、「ギリシアの建物についての手がかり何も残されておらず、我々はすべからくローマの古代遺跡に版を求めるべきである」と述べている。 ギリシア芸術を模倣すべきであるとしたヴィンケルマンがギリシアのものとした芸術作品の多くが、実はギリシア時代のものではなかったことも、これを証明している。 15世紀まで、ウィトルウィウスの『建築について』は、、、そしてにでこの書籍を再発見するチェンチオ・ルスティッチ、のような一部の知識人の目に触れるだけであった。 また、も写本の閲覧を欲していたように、その存在を知っていた。 16世紀以降、この建築書は各国語に翻訳・出版され、広く知られるようになった。 にラテン語版(フラ・ジョコンド版)、に図版入りのイタリア語版(チェザリアーノ版)、フランス語ではギョーム・フィランドリエ版がに出版されている。 ブレンデル(1979)(川上・中村2008 p. 36)。 イギリスでは、1733年にディレッタント協会が設立され、考古学の成長に決定的な役割を担うようになる。 ジェームズ・スチュアートおよびニコラス・レヴェット『Antiquities of Athens』(1762年)、C. コッカレル『The Temples of Jupiter Panhellenius at Aegina, and of Apollo Epicurius at Bassae』(1860年)などは、その成果である。 その他、パンクラーツィ『Antichita Siciliane』(1752年)、ジュリアン・ダヴィッド・ルロワ『Les Ruines des plus beaux monuments de la Grece』(1758年)などがある。 建築を含むギリシアの芸術がローマに優越するという考えは、の書簡(1647年)、フランチェスコ・ミリッツァ『Dizionario delle Belle Arti del Disegno』(1787年)等にみられる。 また、古典建築とゴシック建築を比較検討する際においても、対象となるのはギリシア建築となった。 ヘーゲル(1996)p. 279• ヘーゲル(1996)pp. 280-281• バンディネッリ(『Leptis Magna』1964年)、H. ロビンソン(『The Urban Development of Ancient Corinth』1965年)、P. フェヴリエ(『Djemila』1968年)、W. アルジンガー(『Die Ruinen von Ephesos』1972年)、I. ブロウィング(『Palmyra』1979年・『Jerash and the Decapolis』1982年)、F. ラゲッテ(『Baalbek』1980年)など。 が『』で触れてはいるものの、ウィトルウィウスの考えが一般的教養であったのか否か、あるいは影響力があったにせよ、どのくらいの期間にどの地域まで浸透していたのかなど、基本的な部分も不明である。 参考文献 [ ] 総論 [ ]• 青柳正規編 『古代地中海とローマ 世界美術大全集 西洋編5』 1997年• エイナル・イェシュタード 『ローマ都市の起源』 浅香正訳 1983年• ピエール・グリマル 『ローマの古代都市』 北野徹訳 白水社 2003年• ラヌッツィオ・ビアンキ=バンディネッリ 『人類の美術 ローマ美術』 吉村忠典訳 新潮社 1974年• ジョン・ブライアン・ウォード・パーキンズ 『図説世界建築史 ローマ建築』 桐敷真次郎訳 本の友社 1996年• オットー・ブレンデル 『ローマ美術研究序説』 辻成史・川上幸子・中村るい訳 2008年• ニコラウス・ペヴスナー 『世界建築事典』 鈴木博之訳 1995年• ニコラウス・ペヴスナー 『新版ヨーロッパ建築序説』 小林文次・竹本碧・山口広訳 1993年• 『都市-ローマ人はどのように都市を作ったか』 西川幸治訳 2004年• Axel Boethius, Roger Ling, Tom Rasmussen Etruscan and Early Roman Architecture Yale University Press 1992年• Richard Krautheimer Early Christian and Byzantine Architecture Yale University Press 1966年• William L. MacDonald The Architecture of Roman Empire Yale University Press 1988年• Frank Sear Roman Architecture Cornell University Press 1983年• 桐敷真次郎 「建築学の基礎3 西洋建築史」• クリスチャン・ノルベルグ・シュルツ「西洋の建築 空間と意味の歴史」 前川道郎訳 古代の社会・生活との関係 [ ]• 青柳正規 『ポンペイの遺産-2000年前のローマ人の暮らし』 小学館 1999年• 岩井経男 『ローマ時代イタリア都市の研究』 2000年• ピエール・グリマル 『古代ローマの日常生活』 北野徹訳 白水社 2007年• アレクサンドル・グランダッジ 『ローマの起源』北野徹訳 白水社 2006年• ローレンス・ケッピー 『碑文から見た古代ローマ生活誌』 小林正雄・梶田知志訳 2006年• スティーヴン・ビースティ、アンドルー・ソルウェー 『図解古代ローマ』 松原国師・倉嶋雅人訳 2004年• ジャクリーン・モーリー 『古代ローマの別荘』 桐敷真次郎訳 1993年• 長谷川岳男・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』東京堂出版 2004年• 弓削達 『ローマ帝国の国家と社会』 岩波書店 1964年• 弓削達 『ローマ帝国論』 1966年 ローマの遺構の解説書 [ ]• 磯崎新・ 『建築行脚3 逸楽と憂愁のローマ:ヴィッラ・アドリアーナ』 1981年• 太田静六 『世界帝国ローマの遺構』 理工図書 1995年• 香山壽夫・香山玲子 『建築巡礼42 イタリアの初期キリスト教聖堂』 1999年 古代の著作 [ ]• ウィトル-ウィウス 『ウィトル-ウィウス建築書』 森田慶一訳 東海選書 1992年• スエトニウス 『ローマ皇帝伝(上)』 國原吉之助訳 1986年a• スエトニウス 『ローマ皇帝伝(下)』 國原吉之助訳 岩波文庫 1986年b• タキトゥス 『年代記(上)』 国原吉之助訳 岩波文庫 1981年a• タキトゥス 『年代記(下)』 国原吉之助訳 岩波文庫 1981年b• リーウィウス 『ローマ建国史(上)』 鈴木一州訳 岩波文庫 2007年 その他 [ ]• ジョルジュ・ヴァザーリ 『ルネサンス彫刻家建築家列伝』 森田義之監訳 2009年• 小佐野重利・姜雄編 『ラファエッロと古代ローマ建築』 1993年• レンツォ・サルヴァドリ 『パリ(建築ガイド)』 土居義岳訳 1991年• 『ヘーゲル美学講義(中)』 長谷川宏訳 1996年 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するカテゴリがあります。 ローマ建築に関わる世界遺産 [ ] ヨーロッパ [ ].

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マクワ「ニャッチとトラハムはこっちに行って!こっちは俺とムスカ、クロム、ワドルディで行くし!」 ニャッチ「挟み撃ちで行きましょうか?」 たまごちゃん「女子チームは左!こっちは右っていうことで」 連合軍は正面にいるゼロで引き寄せその隙にニャッチとトラハムちゃんがレバーを下す作戦を立てた。 人数が多く圧倒的有利な連合軍をゼロと忍が迎え撃ついざ決戦! ゼロ「俺はボールを持っているふりするしかないか。 」 ゼロの援護に急ぐだい子。 間に合うか。 ニャッチとトラハムと作戦通り配置につき陣形が整った。 ゼロ「忍、頑張ってくれ!」 忍(MASTER ZERO ENEMY MUSUKA KUROM WADDLE MIYAWAKA TAMAGO HINATA MAKUWA) マクワ「せーので行くか。 」 忍が急にバンダナワドルディにボールを当てる。 ( ゴン) バンダナワドルディ「うわっ!」 マクワ「やばっ!ワドルディがやられちゃった!でもモタモタしていたら危ない!それよりトラハム!ニャッチ!レバー下せ!」 マクワがそういうとニャッチとトラハムちゃんがレバーへ立ち向かう。 その隙に逃げるゼロにニャッチが丸腰のゼロにボールを当てる。 ゼロ「どわっ!」( ゴン) トラハムちゃん「なんとかしなきゃ!」( グイッ!) トラハムちゃんは力を入れながらレバーをシュッと急ぐように下した。 契約解除 トラハムちゃん「よっしゃーーー!」 イヴ「イェーーイ!」 トラハムちゃん「忍解除ーーー!!」 ワドルディが忍のボールの餌食になったものその隙に2人が突破し丸腰のゼロを撃破! 狙い通りの連合軍、一人犠牲出したもの達成を制した。 バンダナワドルディ ロックマンゼロ 撃破 残り11人 残り時間40分34秒 ブーブーというアラームの音が鳴る。 ドナルド「ん?何の音?」 だい子「な、なんだ?」 剛「何?」 忍 契約解除 剛「う、ウソだ!?」 ドナルド「え?うそでしょ!?」 だい子「あーーー!あたしの忍がーーー!ニャッチにより全ての忍の契約が解除された!トラハムちゃんめぇ…あとでぶっ殺してやる…。 覚えてろよ。 」 これですべての忍との契約が解除され停止状態となった。 マクワ「やりましたな!」 ニャッチ「やったにゃーーー!」 トラハムちゃん「うれしいわーーー!」 クロム「本当にうれしすぎる!忍停止だとは!これで恨みが張らせたぞ!」 連合軍お互いに手を合わせながら喜ぶ。 トラハムちゃん「やりましたね!でもワドルディは失ったけど…」 クロム「一人犠牲にしたけどなんとか無事に達成できてよかったです。 」 ゆめ「わざと一人犠牲にして忍を引き付けてその隙を突いたということね。 」 マクワ「でもワドルディ、ごめん!それよりミッションクリアしたので反忍連合軍解散するか!」 マクワ「これからはまた敵同士!正々堂々と戦うんだぞ!よし解散だ!」 8人「解散!!」 このバトルでゼロを撃破したニャッチが所持金を増やした。 ミッションの結果3人は忍びを失い誰も忍を持っていない状況となった。 残るのは11人。 ドナルド「忍、ありがとう。 」 エリア ゆめ「よし腕輪買いに行くかって10万円しかないわ…だれかやっつけないと」 ムスカ「忍いなくなっていい勝負ができそうだ。 ってこの忍には契約の腕輪をつけられるのかな?」 スタッフ「はい、そうです。 どうしますか?」 ムスカ「金に余裕あるし買うか!」 武器屋で腕輪を買ってビッグバトルボール忍を契約させようとしたムスカ大佐。 その様子を見たのは日向ゆめ。 こっそり近づく ムスカ「ふぇっ!?あんた夢?」 ゆめ「あ!ムスカだ…!夢だよ!やっつけてもらうわ!」 ムスカ「はっはっはっ、命乞いをしろ!」 ゆめ「やるか!」 ムスカ「はっ!」 先制攻撃するも、盾でムスカのボールを防ぐ。 その隙を射抜こうとするがムスカは瞬発力でよけ拾ったボールで… ムスカ「ひざまずけ!」 ゆめ「いやっ!」( ゴン) ムスカが反撃し、日向を見事に沈めた! 日向ゆめ 撃破 残り10人 残り時間33分54秒 ゆめ「そんなぁ~!」 ムスカ「ハッハッハ、見ろ!日向がゴミのようだ!」 ブルル… だい子「撃破情報。 ムスカが日向ゆめ撃破。 残り10人。 ムスカ2人も撃破してるんだが!」 エリア ドナルド「誰?」 彼が見つけたのは… イヴ「あ!ピエロ!」 敵を探していた宮若イヴ。 こっそり近づきながら目を合わせる ドナルド「イヴ倒すか。 」 たまごちゃん「やばいわ…私もそろそろ本気出そうかな」 トラハムちゃん「爆弾たまごちゃんは怖いな…でもミッションには一緒に行ってくれたけど」 マクワ「あ、あれは…」 ムスカ「ひざまずけ!マクワ!」 マクワ「ム、ムスカー!」 ムスカと鉢合わせしたマクワ。 忍はビッグバトルボールを構えている。 忍(…ENEMY MAKUWA) マクワ「くそっ…こうなったら」 覚悟を決めたマクワはボールを投げつける振りをし、忍を惑わすが…ビッグバトルボール忍がビッグバトルボールをマクワの腰に命中! マクワ「ぐはっ!」( ゴン) 躊躇するマクワをビッグバトルボール忍が余裕で腰に命中させた! マクワ 撃破 残り8人 残り時間28分56秒 マクワ「くっそ…母ちゃんごめんよ!」 ムスカ「はっはっは、見ろ!マクワがゴミのようだ。 私に勝つなど1億年早い。 」 ブルル… ニャッチ「今度は誰?」 トラハムちゃん「ムスカがマクワを撃破。 残り8人。 ムスカやばくないか?」 剛「かなり減ったか…」 だい子「さて誰にしようかな?誰かやっつけてやるか。 だい子「カオス組!私に勝てると思ってるのか!?」 ドナルド「アラー!でも僕のほうが強いんだぜ?」 だい子「恨みを晴らしてやる!」 ドナルド「ハッ!」 だい子「どけや!ゴルァ!」( ゴン) ドナルド「アラー!」 汗塗れで、ボールを滑らせ思うように飛ばずだい子が投げた魔球に撃沈。 ドナルド 撃破 残り7人 残り時間27分21秒 だい子「はっはっはー!どうだ!参ったか!」 ドナルド「あいつにはかなわないな…」 ブルル… トラハムちゃん「撃破情報。 だい子がドナルドを撃破。 残り7人。 だい子…やばい…。 」 先ほどドナルドを撃破しただい子は武器屋に到着。 誰が現れるかはわからない。 なお忍と違い一度やられると復活できない。 だい子「いいの来いよ!」 クリノッペ「ただいまクリノッペ参上!」 だい子「クリノッペ!?誰だよ!」 クリノッペ「モンプラと同じくグリーからやってきたクリノッペさ。 よろしく!」 だい子「目ないやん!でもいいや!」 だい子 クリノッペ 獲得 トラハムちゃん「だい子が…新たな仲間を。 あ?これは忍。 でも金がないから無理…。 」 それは元はドナルドの忍だったがイベントにより停止された忍だ。 彼女は金がないからあとにした。 クロム「だ、誰?」 その声に気付いたのは先ほどクリノッペを仲間にしただい子だ。 だい子「クリノッペ、敵は?」 クリノッペ「います!」 クロム「怖い…どうするんだ。 」 常に警戒が絶えない戦闘中は最後の一人になるまで終わらない。 するとだい子はクロムに気づく。 だい子「あ!クロムだな!クリノッペの攻撃も味わってもらうか!」 クロム「そうはさせるか!」 ボールを投げるものクリノッペとだい子は余裕でかわす! クロム「あれ?」 クリノッペ「今です!」 クロム「どわっ!」( ゴン) 攻撃に出るものクリノッペが投げたボールがクロムの背中に命中! クロム 撃破 残り6人 残り時間24分34秒 クロム「そんなわけあるか…」 だい子「クリノッペ!流石!」 クリノッペ「イェーイ!」 プルル 剛「誰だ?」 ムスカ「だい子のパートナーのクリノッペがクロムを撃破!残り6人!だい子やばいって…チートやろ。 」 ニャッチ「だい子、2連は恐ろしいにゃ。 」 たまごちゃん「煙玉買っておくか。 」 そのころ武器屋についたのは、たまごちゃんだ。 たまごちゃん「10万円ね!」.

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