項羽本紀 書き下し文。 歴史物語の最高傑作『史記』!その魅力と作者・司馬遷の生きざま

『史記・項羽本紀』の1:項羽の登場と決起

項羽本紀 書き下し文

青=現代語訳・下小文字=返り点・上小文字=送り仮名 項王 ノ軍壁 二 ス垓下 一。 兵少 ナク食尽 ク。 項王の軍垓下に壁す。 兵少なく食尽く。 項王軍は垓下の城壁の中に立てこもった。 兵の数は少く食料も底を尽きた。 漢軍及 ビ諸侯 ノ兵囲 レ ムコト之 ヲ数重 ナリ。 漢軍及び諸侯の兵、之を囲むこと数重(すうちょう)なり。 漢軍と諸侯の兵は、これを幾重にも取り囲んだ。 夜聞 二 キ漢軍 ノ四面皆楚歌 スルヲ、項王乃 チ大驚 キテ曰 ハク、 夜漢軍の四面皆楚歌するを聞き、項王乃(すなは)ち大いに驚きて曰はく、 夜、周りを取り囲んだ漢軍が全員で楚の国の歌(楚の地方の民謡)を歌うのを聞き、項王は(漢軍が楚の国の歌を歌っていることが思いがけないことで)たいへん驚いてこう言った。 「漢皆已 ニ得 レ タル楚 ヲ乎。 是 レ何 ゾ楚人之多 キ也 ト」。 「漢皆已(すで)に楚を得たるか。 是(こ)れ何ぞ楚人の多きや。 何と楚の人間が多いことだ。 」 項王則 チ夜起 チテ飮 二 ス帳中 一 ニ。 項王則(すなは)ち夜起(た)ちて帳中(ちょうちゅう)に飲す。 項王はそこで夜中(にも関わらず)起き上がり、陣の帳の中(帳をめぐらした陣営の中)で宴をした。 有 二 リ美人 一、名 ハ虞、常 ニ幸 セラレテ従 フ。 美人有り、名は虞(ぐ)。 常に幸(こう)せられて従ふ。 虞という名前の美人がいた。 常に項王に寵愛され付き従っていた。 駿馬 アリ、名 ハ騅。 常 ニ騎 レ ル之 ニ。 駿馬(しゆんめ)あり、名は騅(すい)。 常に之に騎(の)る。 騅という名の駿馬があった。 いつも項王はこの馬に乗った。 於 レ イテ是 ニ、項王乃 チ悲歌忼慨 シ、自 ラ為 レ リテ詩 ヲ曰 ハク、 是(ここ)に於(お)いて、項王乃ち悲歌忼慨(かうがい)し、自ら詩を為(つく)りて曰はく、 そこで項王は悲しげに歌い、憤り嘆いて、自ら詩を作った。 力 ハ抜 レ キ山 ヲ兮気 ハ蓋 レ フ世 ヲ 力は山を抜き気は世を蓋(おほ)ふ 我が力は山をも引き抜き、我が気はこの世をも覆う。 虞よ虞よ、汝をどうしたらよいのか、と 歌 フコト數闋、美人和 レ ス之 ニ。 項王泣数行下 ル。 歌ふこと数闋(すうけつ)、美人之に和(わ)す。 項王泣(なみだ)数行(すうぎょう)下る。 (項王は)数回繰り返して歌い、虞もともに(調和して)歌った。 項王ははらはらと涙を流した。 左右皆泣 キ、莫 二 シ能 ク仰 ギ視 一 ルモノ。 左右皆泣き、能(よ)く仰ぎ視(み)るもの莫(な)し。 左右の者たちも皆泣き、誰も仰ぎ見ること(顔を上げること)ができなかった。 続きはこちら 問題はこちら lscholar.

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史記 「大丈夫当如此也」 現代語訳

項羽本紀 書き下し文

いまから2000年以上も前に、中国の一役人である司馬遷(しばせん)が書き上げた『史記』は史上最高の歴史物語といわれています。 また「完璧」「怒髪天を衝く」「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」「四面楚歌」「鳴かず飛ばず」「臥薪嘗胆」「満を持す」などのことばも、『史記』の記述に由来します。 ここではそんな『史記』の魅力と、作者・司馬遷の生涯に迫ります。 司馬遷ってどんな人?『史記』ってなに? 司馬遷ってどんな人? 紀元前1、2世紀ごろ、ユーラシア大陸では東西に2つの大帝国が誕生しました。 地中海のローマ帝国と、中国の漢です。 中国では紀元前221年に秦が中国を統一したのち、漢がそれにとって代わり、紀元前141年からは武帝という皇帝のもと、最盛期をむかえていました。 この武帝時代の漢において、名もないひとりの役人だったのが司馬遷(しばせん)です。 司馬遷は彼自身の伝記によると、父から太史令(たいしれい)という役職を受け継いでいました。 この太史令というのは、漢の官僚組織のなかで、天文や暦、国の文書起草などを司る役職です。 司馬遷は父の死にともない、30代半ばでこの太史令の役人、つまり「太史公」となりました。 そして司馬遷は60歳手前で亡くなるまで、たったひとりで中国の歴史書を書き上げたのです。 歴史書を書くということが、太史公の仕事のひとつだったのか、それとも司馬遷個人の意志だったのかはわかりません。 伝記によると、司馬遷の父が遺言で、わたしの成しえなかった歴史の記録をおまえに託すと言っていますので、おそらく司馬遷と父の意志だったのでしょう。 こうして書き上げられたのが名著『史記』でした。 当初は司馬遷の役職名をとって『太史公書』と呼ばれていましたが、時代がくだるにつれて『史記』と呼ばれるようになりました。 『史記』ってなに? 『史記』とは130巻、526500字からなる中国の歴史書です。 歴史上のさまざまな人物と出来事が、司馬遷の生き生きとした筆致によって描かれています。 『史記』はジャンル別に5つに区分けされていて、「本紀」12巻、「表」10巻、「書」8巻、「世家」30巻、「列伝」70巻となります。 「本紀」とは歴代皇帝の事績を紹介したジャンルです。 伝説上の5帝からはじまり、夏・殷・周・秦・漢という歴代王朝の皇帝たちの性格や事業、生い立ちから死までを描いています。 また「表」とは皇帝たちの活動を年表にしてまとめたものです。 また「書」とは制度史で、政治や経済などの制度の変遷を記述しています。 「世家」とは、諸侯たちの活躍を描いたジャンルです。 周時代の太公望(たいこうぼう)からはじまり、春秋・戦国時代の諸王や、秦に反乱をおこした陳勝と呉広、また孔子もこのジャンルに区分けされています。 そして最大巻数をほこる「列伝」では、皇帝でも諸侯でもないけれど、歴史に名を残すべきさまざまな人々が取り上げられています。 『史記』はその膨大な資料と、歴史的価値と、そしてすばらしい筆致から、時代をこえて読み継がれました。 そのため中国ではのちに正式な歴史書のひとつとされ、『史記』の5ジャンルという形式も「紀伝体」とよばれて引き継がれました。 いまでも中国や日本をはじめ、世界中の読者をとりこにしています。 『史記』を読んでみよう!廉頗・藺相如(列伝)その1 「完璧」の語源は藺相如のことばから 『史記』の魅力を実感するには、なにはともあれ読んでみるのがいちばんです。 そこでここからは、ほんのいくつか、『史記』の内容を紹介しましょう。 まずは「列伝」より、戦国時代の七国のひとつ趙にあって、ともに国を支えた廉頗(れんぱ)と藺相如(りんしょうじょ)のお話です。 紀元前3世紀の戦国時代、中国は七国に分かれて争っていました。 西では秦が昭王のもとで強大化し、中央に位置する趙は、名将廉頗のおかげでなんとか均衡をたもっていました。 そんなとき、趙の王が璧(へき)という宝玉を手に入れます。 璧とは円盤状のたいらな石のまんなかに穴をあけた、当時としては非常に高価な宝物でした。 そのうわさを聞きつけた秦の昭王が、「15の城と璧とを交換したい」と申し出てきます。 対応に困った趙の宮廷のなかで、ひとりの家臣が藺相如という部下を推薦します。 宮廷にあらわれた藺相如は王にたいして言います、「もし璧を与えて秦が城をよこさねば、非は秦にあることになります。 ここは秦の要求をききいれて、非を秦に負わせるのがよろしいでしょう」。 そこで趙王は、誰を使者とすべきかと尋ねます。 藺相如はみずから行くと申し出て、「城入らずば、臣請う、璧を完う(まっとう)して趙に帰らん」(もし城が手に入らなかったら、璧を無事に趙に持ち帰りましょう)と告げました。 ここから、大事な仕事を完全にやり遂げることを「完璧」と言うようになりました。 「怒髪天を衝く」 藺相如はみずから璧を持って、秦の昭王のもとへ赴きました。 しかし昭王が藺相如そっちのけで、璧を周囲に見せびらかしてはよろこんでいるので、昭王に城をゆずる気はないと見ぬきます。 そこで藺相如は「その璧にはキズがあります、どこにあるかお教えしましょう」と言って壁を取りかえし、そのまますこしずつ後ずさりして、柱に寄りかかります。 ここからの場面は『史記』の本文にゆずりましょう。 「相如、(中略)怒髪上りて冠(天のこと)を衝く、秦王に言いて曰く、大王、壁を得んと欲し、人を使わし、書を発して趙王に至らしむ(中略)臣、大王の趙王に城邑を償うに意無きを観(み)、ゆえに臣また壁を取る、大王必ず臣を急にせん(秦王がわたしを追いつめる)と欲せば、臣の頭、今、璧とともに柱に砕けん、と」。 そして藺相如は璧とみずからの頭を、柱に打ちつけようとします。 秦の昭王はあわてて制止して、藺相如にあやまります。 それから役人を呼んで地図をひろげ、この15の城をゆずろうと言いました。 しかし藺相如は、やはりこれも口先だけの約束であることを見ぬいていました。 そこで昭王に、5日経ってからでないと壁は渡せないと告げます。 昭王がそれにしたがって5日間休んでいるあいだに、藺相如は部下に壁を持たせて、趙へと持ち帰らせました。 こうして藺相如は璧をまっとうしました。 藺相如の怒りを表現した「怒髪天を衝く」もまた、ことわざのひとつとして現代に残っています。 『史記』を読んでみよう!廉頗・藺相如(列伝)その2 趙と秦の和睦会談 その後、趙と秦は戦争になり、やがて和睦が結ばれることになりました。 両国の王が直接会談することになりましたが、趙王はおそれて、なかなか腰をあげません。 そこで廉頗と藺相如が説得して、ようやく趙王は会談場所へと旅立ちました。 途中まで見送った廉頗は王に言います。 「王よ、行きなされ。 道のりを計算すると、会談が終わって帰るまでに30日はかかりますまい。 もし30日経ってご帰還なきときは、わしが太子を王位につけて、秦の野望を打ち砕いてみせましょう」。 趙王はこれを良しとして、藺相如とともに会談場所に向かいました。 ふたりの王の会見はすぐに宴会となりました。 酒宴の最中、秦の昭王は趙王にたいして、あなたは音楽が好きと聞いている、ひとつ弦楽器を弾いてくださらんかと言います。 趙王が弾いてみせると、秦の記録係が「何年何月何日、秦王は趙王に弦を弾かす」と書きとめました。 すると今度は藺相如が昭王にたいして「秦王は歌がお上手とのこと」と言って、たたいてリズムをとるための酒の土器を差し出しました。 昭王がだまっていると、藺相如は「わたしと大王とは、5歩と離れておりません。 わたしの首の血を大王に注ぎかけてみせましょうか」と告げます。 昭王の側近が斬りかかろうとしますが、藺相如がカッと目をひらき恫喝したため、皆すくんでしまいました。 そこで昭王はしかたなく一度だけ土器を打ちました。 藺相如はすかさず記録係を呼んで、「何年何月何日、趙王のために秦王が土器を打つ」と書きとめさせました。 「刎頸の交わり」となった二人 こうした功績によって、藺相如の名声はますます高まりました。 趙第一の武将である廉頗にはこれがおもしろくありません。 「わしは数々の武功を上げた、しかし藺相如は口先だけの働きでわしより上の位におる、がまんできん、やつと会ったら必ず恥をかかせてやる」と吹聴しました。 これを伝え聞いた藺相如はそれから廉頗を避けるようになりました。 とおくに廉頗を見かけると横道に隠れたりしました。 藺相如の部下たちは君主の姿をみて情けなく思い、とがめます。 すると藺相如は言いました、「あの強大なる秦が趙を攻めないのは、廉頗将軍とわたしの二人を恐れてのことだ、もし二人が争えばどちらかが倒れるだろう、わたしの行動はわたし自身の意地よりも、国家の大事を大切に思うからなのだ」と。 廉頗はこれを聞いて、すぐに藺相如のもとまで行きます。 そして、あなたのここまでの寛大さを知らなかったと言って謝罪しました。 こうしてこれ以降、二人は「刎頸(ふんけい)の交わり」となりました。 刎頸とは首をはねることで、たとえ相手のために首をはねられてもかまわないほどの深い友情をいいます。 「廉頗・藺相如列伝」の最後で、司馬遷はみずからの考えを述べています、「人は死を覚悟すれば必ず勇者となる、死ぬこと自体が難しいのではない、どのように死ぬかが難しいのだ」と。 そして藺相如こそ、勇気と知恵と兼ね備えた人物だったと評しました。 『史記』を読んでみよう!陳勝・呉広(世家) 「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」 つづいて紹介するのは『史記』の「世家」より、陳勝(ちんしょう)と呉広(ごこう)のお話です。 このふたりは秦時代に生きた人物で、ともに反乱をおこし、秦滅亡のきっかけをつくった「陳勝・呉広の乱」で知られています。 また中国では歴史上いくつもの反乱がおこって王朝が滅びましたが、この乱は史上はじめて、王朝滅亡につながった農民反乱でもあります。 陳勝と呉広はともに、いまの河南省出身の農民でした。 陳勝はあるとき、小高い丘の上にのぼって深くためいきをつき、雇い主にたいして「たとえ裕福になっても、おたがいのことを忘れないようにしましょう」と言いました。 雇い主は笑って、「おまえは雇われ農民だ、裕福になどなれるものか」と言い放ちます。 それにたいして陳勝は、「燕雀(えんじゃく)いずくんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」(ツバメやスズメがどうして大鳥の志を知ることができようか)と言いました。 これは、小人物は大人物の考えをわからないという意味です。 陳勝の性格や、かれが若いころからおおきな野望を持っていたことを、司馬遷はこのエピソードでたくみに描いています。 その後、河南省の農民900人が辺境の守備のため徴集されます。 陳勝と呉広はこの徴集で出会いました。 ところが大雨にあって道が不通となり、期日までに到着できそうにありません。 秦の法律では、徴集に遅刻したら死刑でした。 そこで陳勝と呉広は話しあって、秦への反乱をくわだてるのです。 「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 呉広はもともと人望のある男でした。 かれのためなら何でもするという人も多くいました。 そこで呉広は、農民たちを監督している士官をわざと怒らせ、呉広を侮辱させました。 農民たちがこれに騒ぎ立てます。 士官は騒ぎをおさめるため、呉広を殺そうと剣をぬきました。 呉広は瞬時に士官の剣をうばい、逆に士官を斬り殺します。 陳勝もこれにあわせて別の士官を殺します。 そして陳勝と呉広のふたりは、農民たちに決起をうながします。 「期日に間に合わなければ死罪だ、たとえ死罪をまぬがれても、辺境守備では10人中6、7人が命をおとす、男子たるもの、死なないですむならそれでいいが、どうせ死ぬなら大きな功名を挙げるのみ、王侯も将相もどうして種族の別などあろうか!」。 こうして反乱がおこりました。 陳勝と呉広の最後のことば、「王侯将相いずくんぞ種あらんや」とは、身分(王や諸侯や将軍や宰相)に血筋など関係あるものかという意味です。 やがて反乱は各地に広まり、秦の支配に反感をもっていた者たちも呼応して、陳勝と呉広はそれぞれ各地の王となりました。 その後、秦の反撃にあい、わずか6か月で陳勝と呉広は倒されます。 しかし反乱ののちに頭角をあらわした項羽と劉邦が、やがて秦を滅ぼしてゆくのです。 いま、陳勝と呉広が反乱をおこした場所である安徽省宿州市の渉故台村には、陳勝と呉広の巨大な記念像が建てられています。 『史記』を読んでみよう!項羽と劉邦(本紀)その1 項羽と劉邦の性格のちがい 最後に紹介するのは、『史記』の「本紀」より、項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)の有名なお話です。 このふたりは秦滅亡後の中国の覇権をめぐって、はげしい争いをくりひろげました。 やがて劉邦が勝って漢王朝を建てるのですが、司馬遷は敗者である項羽についてもたくさんの記述をのこしています。 名文といわれる箇所も多いこの「項羽本紀」を見ていきましょう。 項羽はいまの江蘇省、むかしでいう楚の国の東部に、武将の子として生まれました。 いっぽうの劉邦も江蘇省の生まれで、こちらは農民の子どもでした。 ふたりの若いころ、秦の始皇帝の行列を見物する機会がありました。 項羽は始皇帝の姿を見つけると、「あいつに取って代わってやろう!」と叫んだといわれています。 いっぽうの劉邦はやはり始皇帝の姿を見て、「ああ、男子たるもの、あのようになりたいなあ」と言ったそうです。 ふたりの性格のちがいがわかります。 項羽23歳のとき、陳勝・呉広の乱がおこります。 項羽の父はこれに乗じて軍をおこし、乱が鎮圧されたあとも軍を拡大して、秦への対抗勢力の盟主となります。 項羽はその果敢な戦いぶりで、父の軍勢のなかで頭角をあらわしていました。 いっぽうの劉邦はろくに家業もせず、毎日飲んだくれていましたが、不思議とかれのまわりには人が集まり、やがて反乱時にはみなから推されて、生まれ故郷の街で反乱軍のトップとなりました。 項羽の大勝と非道、劉邦の「法三章」 やがて項羽は父が戦死したあと、対秦勢力のドンになります。 そしてかれは秦の主力軍を討つため全軍をひきいて北上します。 渡河につかった船はすべて沈め、宿営地もぜんぶ焼いて、兵士たちに決死の覚悟をもたせて戦いにのぞみました。 あとがない項羽兵たちの士気はすさまじく、秦の主力軍を壊滅させます。 そして項羽は、投降した20万人の秦の兵士たちを生き埋めにして殺しました。 このころ劉邦も対秦勢力の主役のひとりに成長し、秦の都・咸陽(かんよう)を落とすため西へと向かっていました。 道中、苦戦がつづきましたが、軍師である張良の奇策によって勝利をかさね、ついに咸陽にたっし、秦の第3代皇帝を降伏させました。 劉邦は皇帝を殺さず、そして咸陽の人々に告げました。 「これより法は3章だけだ、人を殺した者は死刑、人を傷つけたら処罰、ものを盗んでも処罰、それ以外の法は排除する、みなは安心していままでの仕事に従事しなさい」。 きびしい法律に苦しんでいた秦の人々は、これをきいておおいに喜びました。 ちなみに劉邦は大の女好きで酒好きだったので、咸陽の宮殿にとどまりたかったようです。 しかし部下たちに叱られたため、あきらめて咸陽の外に陣取りました。 それで咸陽では、劉邦軍は宮殿の女たちや宝物にいっさい手をつけませんでした。 そこに、秦の主力をやぶった項羽がやってきます。 劉邦軍が咸陽のてまえの函谷関(かんこくかん)という門を固めていたので、何事かと項羽は激怒します。 ここから項羽と劉邦のふたりの会談、いわゆる「鴻門の会」へと移ります。 『史記』を読んでみよう!項羽と劉邦(本紀)その2 「鴻門の会」前半 項羽と劉邦のふたりは、項羽の叔父のとりなしで会談をもうけます。 劉邦は項羽に謝罪し、「『函谷関をふさいで王になりなさい』という小人の中傷によって、将軍とわたしとのあいだにすきまができてしまったのです」と告げました。 これは事実でしたので、項羽も劉邦を許して、そのまま酒宴となります。 項羽の部下に、范増(はんぞう)という老齢の軍師がいました。 范増は以前から、劉邦が項羽にとっておおきな障害になると思っていたので、酒宴の最中、さかんに項羽にめくばせして、劉邦の暗殺をほのめかします。 項羽は黙然として応じません。 そこで范増は席を立ち、項羽の従弟を呼んでこう言います。 「おまえは酒宴に入ったら、剣を舞い、その剣舞にことよせて劉邦を殺せ」。 項羽の従弟はその指示どおり、酒宴に入り、「軍中なのでなんの楽しみもありません、ひとつ剣舞でもいたしましょう」と言って、剣をぬいて舞いはじめました。 これに項羽の叔父が、みずからも剣をぬいて舞い、身をていして劉邦を守りました。 ここにいたって、劉邦の軍師である張良が席をたち、ひそかに劉邦軍の樊噲(はんかい)を呼びます。 樊噲は劉邦と同郷で、若いころから劉邦につき従っていた武将でした。 様子はどうかという樊噲にたいして、非常に切迫していると張良が答えます。 そこで樊噲は「わが公と生死をともにいたそう」と言って、酒宴に入っていきます。 「鴻門の会」後半 樊噲は酒宴のとばりを開き、目をいからして項羽を見ます。 頭髪は逆立ち、まなじりはつり上って裂けていました。 項羽はとっさに剣をひきよせ、片膝をたてて「何者ぞ」と叫びます。 樊噲が臆せずに名をつげると、項羽は「壮士なり」と讃えて、酒をあたえます。 樊噲は一礼して、立ったままそれを飲みほしました。 項羽がさらに讃えて、豚の背の肉をあたえると、樊噲は持っていた盾を地に置いてそこに肉をのせ、剣で切ってむさぼり食いました。 「壮士なり!まだ飲めるか」と項羽が言います。 これに樊噲は答えます。 「臣は死すら避けません、まして酒ごときどうして辞退しましょうか。 (中略)いまわが公は咸陽に入るも、宮殿を封鎖し、咸陽の外に陣をしき、項羽大王の来られるのを待っていました。 しかるに小人の言説を聞き、功多きわが公を殺そうとされます。 これは滅亡した秦とおなじふるまいとしかいえません。 項羽大王のためにはなりませんぞ」。 項羽はこれを聞いてひとこと、座れ、と言いました。 それで樊噲は張良のとなりに座りましたが、しばらくして劉邦が厠に立ち、樊噲を招いて外に出ました。 そして劉邦はそのまま会談場所をあとにするのです。 項羽の軍師・范増は、劉邦を取り逃がしてしまったことを嘆き、「ああ、豎子(じゅし、青二才のこと。 ここでは項羽をさす)はともに謀るに足らず、項王の天下を奪わん者は、必ず沛公(劉邦のこと)なり」と言いました。 そして実際、范増の言うとおりになるのです。 『史記』を読んでみよう!項羽と劉邦(本紀)その3 「四面楚歌」 「鴻門の会」の後、項羽は劉邦とその軍勢を、咸陽のさらに西の奥地、漢中という場所に封じこめます。 のちに劉邦の建てた王朝が「漢」と呼ばれるようになるのはこの「漢中」という地名に由来します。 項羽は一時、中華全域に覇をとなえましたが、すぐに領土分配の不平などからその支配が乱れはじめます。 そして劉邦もまた反旗をひるがえし、ここから4年にわたって、項羽vs. 劉邦の争いがくりひろげられるのです。 当初の戦いは項羽が優勢でした。 劉邦はさんざんに負けて敗走することもあり、敗走のさい、車の速度を増すために、息子と娘を車から蹴落としたこともありました(部下が助けて劉邦を叱って、子どもたちは無事でした)。 しかしやがて劉邦軍が優勢となります。 とくに韓信(かんしん)という名将が項羽のもとを去って劉邦の側についたことで、劉邦軍は勝利を重ねました。 劉邦は部下たちの力によって、項羽軍を上回ったのです。 項羽軍は最後の抵抗として、城にたてこもります。 しかし兵は少なく、食糧も尽きようとしていました。 劉邦の大軍が城をとりまいています。 夜、城の四方から、楚の国の歌が聞こえてきました。 楚は項羽の故郷であり、項羽の地盤でもあります。 その地元の歌を劉邦軍が歌っているのを聞いて、項羽はおどろき、「劉邦は楚までも手中におさめたのか」と、わが身の破滅を悟りました。 これが「四面楚歌」ということわざの由来です。 「虞や虞やなんじを奈何せん」 このあと項羽はとばりの中で、訣別の酒を飲みます。 ひとりの美人がいました。 名は虞(ぐ)といい、つねに項羽に寵愛されて、かれに従っていました。 また一頭の駿馬がいました。 名を騅(すい)といい、つねに項羽はこの馬に騎乗していました。 ここにおいて項羽は悲嘆にくれて、みずから詩をつくります。 力は山を抜き気は世を蓋(おお)う 時利あらず騅逝(ゆ)かず 騅逝かず奈何か(いかにか)すべき 虞や虞やなんじを奈何(いかん)せん 歌うこと数回、虞がかれに唱和しました。 項羽の頬に涙がながれ、周囲もみな泣いて、顔をあげるものはひとりもいませんでした。 以上が「項羽本紀」のクライマックスで、古今の名文として知られています。 このあと項羽はわずか800騎をしたがえて劉邦軍の包囲をぬけます。 そして部下たちにたいして、「今ついにここに苦しむのは、天がわしを滅ぼそうとするからであって、戦いに敗れるからではない、それを示すため、また諸君のために、3度戦って3度勝ってみせよう」と言い放ちます。 この言葉どおり、項羽は100騎に減った軍で追っ手の大軍を3度うち負かし、そしてみずから首をはねて死にました。 司馬遷はこの章の最後で、項羽の欠点をきびしく批判しつつも、項羽の偉業を「近古以来、いまだかつて有らざるなり」と讃えています。 また司馬遷は漢王朝時代の官僚でしたが、建国者の劉邦にたいしても賞賛と批判をともに書いているあたり、かれの公平さと、権力におもねらない姿勢が表れています。 司馬遷の生い立ち 司馬遷の生まれ育った韓城市 ここまで『史記』の魅力にふれてきました。 では、この『史記』を書いた司馬遷とはどんな人物だったのでしょうか。 また司馬遷はなぜひとりで歴史書を書こうと思い立ったのでしょうか。 ここからは『史記』の作者、司馬遷の生涯に迫ってみましょう。 司馬遷は紀元前145年ごろ、漢の都・長安(いまの西安)から北東へ200キロほどの場所で生まれました。 現在の行政区分では陝西省韓城市芝川鎮にあたり、ごくふつうのいなか町です。 ここにはいま司馬遷の墓と祠が建てられて、各種ツアーも組まれています。 ちなみに付近には、明・清時代の中国伝統建築を見学できる「党家村」もあります。 司馬遷の父は司馬談といい、当初は韓城市で、農耕や牧畜を営んでいました。 おさない司馬遷も手伝ったのかもしれません。 やがて司馬談は長安の官僚にとりたてられます。 この役職が「太史令」、つまり天文や暦などを司る役職でした。 司馬遷も父とともに長安付近に引っ越します。 司馬遷自身の伝記によると、かれは「10歳で古文を読むことができた」といいます。 独学で古い書物を読むことができるほど才能豊かだったのか、あるいは長安のえらい学者の弟子になって学んでいたのかもしれません。 やがて20歳になった司馬遷は、数年かけて中国各地を旅してまわります。 この旅での見聞が、のちに『史記』を書くさいの助けになりました。 伝説上の皇帝ゆかりの地や、孔子の生まれ故郷を旅する まず司馬遷は中国東南部、いまの浙江省にある会稽山(かいけいざん)に足をのばし、ここで禹(う)の足跡をたどります。 禹とは古代中国の伝説上の皇帝で、堯(ぎょう)、舜(しゅん)という名君たちの跡をついで夏(か)王朝を建てた人物です。 ちなみに夏は殷王朝よりもさらに前の王朝で、いまだ決定的な発掘証拠がありませんが、司馬遷は実在のものとして『史記』に記述しています。 この禹は会稽山で亡くなったといわれており、いまでも会稽山には禹を祭った王廟があります。 つぎに司馬遷は河南省に行って舜の葬られた地を見聞し、そのあと湖南省、山東省と旅しました。 この旅の直線上に項羽と劉邦の生まれ故郷もあるので、あるいは司馬遷も訪れたかもしれません。 いま項羽の故郷である江蘇省宿遷市には「項王故里」というスポットが、また徐州市には劉邦や漢王朝ゆかりの品々が楽しめる「漢文化景区」というスポットがあります。 司馬遷は山東省についたあと、そこで学業を受けました。 学業とはおもに儒教のことでしょう。 なぜなら司馬遷よりさらに400年前の時代、山東省には魯(ろ)という国があって、ここは儒教の創始者・孔子の生まれ故郷だからです。 現在でも山東省の曲阜市には、孔子ゆかりの観光スポットがおおく残されています。 こうした旅によって、司馬遷は見聞をひろめました。 その後長安に帰った司馬遷は皇帝の侍従にとりたてられ、当時の皇帝・武帝にしたがってまた各地を転々とします。 そんなとき、司馬遷の父・司馬談が病にたおれます。 司馬遷が『史記』を書いた理由と、とつぜんの不幸 司馬遷が『史記』を書いたワケ 父・司馬談は病の床で、息子にこう言います。 「われわれの祖先は代々、太史令をつとめてきた、おまえも先祖の仕事を引き継がねばならない、そしてわたしの無念は歴史を書けなかったことだ、いま、古い記録と年代記が失われようとしている、わたしは歴史の資料が失われることをおそれる、おまえはこのことを心に留めておかねばならない」。 この父の遺言を、司馬遷は涙をながして受け止めます。 これが司馬遷をして『史記』を書かせた動機です。 司馬遷よりすこし前の時代に、秦の始皇帝が大量の書を焼き捨てさせたことで(焚書)、たしかに歴史の資料はかなり失われていました。 司馬遷の父は、古来より受け継がれてきた思想や生き方を、将来に残さねばならないと考えていたようです。 またこの父の言葉から想像すると、司馬家というのはあるいは、歴史をつむぐ使命のようなものを託されていた家系なのかもしれません。 父の死後、3年の喪に服してから、司馬遷は太史令となりました。 さまざまな歴史記録を読むかたわら、司馬遷はもうひとつ大仕事を成し遂げます。 太史令の任務のひとつ、暦の改定でした。 司馬遷が中心となってつくった暦は「太初暦」とよばれ、190年間使われました。 そして暦の改定が終わると同時に、いよいよ司馬遷は『史記』の執筆にとりかかります。 父のあつめた歴史資料と、旅先で得たさまざまな見聞を駆使して、執筆は順調にすすみました。 父から受け継いだ使命感にも燃えていたでしょう。 しかし執筆開始から7年経ったとき、司馬遷をおもわぬ不幸がおそいます。 李陵の禍 紀元前99年、中国の北にいる異民族・匈奴(きょうど)と漢とのあいだで戦争がおこります。 漢の武将・李陵(りりょう)は5000の兵をひきいて、単独で匈奴の土地へと打って出ました。 しかし3万をこえる匈奴軍と遭遇して、善戦むなしく、李陵は捕虜とされてしまいます。 これに怒ったのが武帝でした。 単独行動をしたうえ自害せずに捕まるとは何事かと、李陵の処罰を検討します。 家臣たちがみな李陵を責めるなか、ひとり李陵をかばったのが司馬遷でした。 司馬遷は李陵と親しかったわけではありませんが、一時おなじ職場ではたらいたことがあり、才能ゆたかで信頼にたる男だと信じていたからです。 しかし武帝は司馬遷の言葉を聞き入れず、逆に司馬遷を投獄してしまいます。 そこに、李陵が匈奴の人々に軍事訓練をおこなっているという報告が入ります。 これは誤報でしたが、ますます怒った武帝は李陵の一族を殺し、そして司馬遷を宮刑(性器を切り取る刑)に処しました。 つまり司馬遷は、刑罰として宦官(かんがん、去勢された官僚や雑用係のこと)にさせられたのです。 司馬遷47歳、すでに妻子ある身でした。 数年後、恩赦によって司馬遷は釈放されます。 その後も司馬遷は宦官として武帝に仕え、秘書をつとめたり、武帝の各地巡行につき従ったりしました。 そしてそのあいだにも執筆をつづけ、ついに『史記』を完成させるのです。 司馬遷のすさまじい生きざま、そして『史記』が完成した 恥辱を昇華させて完成した『史記』 性器を切りとられたことは、司馬遷にとって最大の恥辱でした。 晩年にかれの書いた手紙にはこうあります。 「人間にとって最上のことは、先祖を恥ずかしめないことであります。 (中略)その下は、束縛の恥辱であり、次は囚人服を着ることであり、次は手かせ足かせされてムチや棒をこうむることであり、次は頭をそられ手錠をかけられる恥辱であり、次は肉をそがれ足を切られる恥辱を受けることであります。 最低はすなわち腐刑(宮刑のこと)です」。 おなじ手紙のなかで、司馬遷は自分のことを「けがれた所にいる不具者にすぎない」と言っています。 おそらく司馬遷は、死にたいほどの屈辱と絶望を味わっていたのでしょう。 しかしそれでも、かれは自殺しませんでした。 自分を恥辱のどんぞこにつきおとした武帝のもとで働きつづけました。 「誰にも語れない悲しみと絶望の中」で生きつづけました。 それは『史記』を完成させるためでした。 司馬遷は言います、「孔子は苦難にあって『春秋』を書いた、屈原は追放されて『離騒』をつくった、左丘は失明したのち『国語』をつくった、孫子は足を切られて『兵法』を編み出した」と。 自分もまた、この困難と恥辱と絶望を糧にして、書を書き上げるのだと。 そして司馬遷は宮刑という不幸を昇華させて、ついに名著『史記』を完成させたのでした。 『史記』が完成したのは紀元前90年ごろのことです。 そして司馬遷はその数年後に、ひっそりと亡くなりました。 享年はよくわかっていません。 おそらく60歳手前だったといわれています。 そして『史記』は歴史書の最高傑作となる 司馬遷の死後、『史記』は司馬遷の娘にたくされ、しばらく隠されました。 当時の皇帝・武帝の怒りにふれそうな記述も多々あったからです。 しかし司馬遷の孫の代になって徐々に知られるようになり、やがてひろく浸透して、中国歴代王朝の正式な歴史書のひとつとなりました。 司馬遷以降、歴史を書くという仕事にさまざまな人物がとりくみ、ほかに23の歴史書が正式採用されましたが、そのなかでも『史記』は最高のものとされています。 日本に『史記』が伝わったのは、奈良時代か、あるいはそれよりも前の時代です。 平安時代にはすでにひろく読まれていたようで、紫式部や清少納言の著作にも『史記』の記述が出てきます。 また日本に現存する最古の『史記』は、鎌倉時代に発行された本で、いまは国宝として国立歴史民俗博物館におさめられています。 歴史書としての『史記』の特徴はたくさんありますが、そのひとつが、より個人に焦点を当てているところです。 『史記』には特徴的ないろいろな人物が登場し、そしてかれらが歴史におよぼす影響を、いまの歴史教科書よりも生き生きと描いています。 だから『史記』は読んでおもしろく、またそこからたくさんの故事成語も生まれました。 『史記』のいちばん最後、「列伝」の第70巻の主役は司馬遷自身です。 その末尾はこうしめくくられています。 「太史公はいう、『わたしは黄帝(伝説上の最初の皇帝)から太初(漢の武帝時代の年号)までの時代の記録を伝え、百三十編の著作を作成した』と」。 『史記』を旅しよう いかがでしたか。 『史記』の記述や司馬遷の生きざまには、胸を熱くさせるものがありますね。 歴史好きな人のなかには、『史記』ゆかりの土地を旅する方も多いとか。 趙の都・邯鄲(かんたん)で廉頗や藺相如の像を見たり、兵馬俑のついでに「鴻門の会」の地を訪れたりと、旅の楽しみ方はさまざまです。 この機会に、『史記』を旅してみませんか。

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緊急です!項羽本紀について!多分項羽本紀だと思うんですけど、項羽の若...

項羽本紀 書き下し文

項王の最期(項王自刎) (現代語訳・解説あり)項羽本紀第七 史記 漢文 項王の最期 -項羽本紀第七より- I think; therefore I am! 本文(白文・書き下し文) 於是項王乃欲東渡烏江。 烏江亭長、檥船待。 謂項王曰、 「江東雖小、地方千里、 衆数十万人、亦足王也。 願大王急渡。 今独臣有船。 漢軍至、無以渡。 」 項王笑曰、 「天之亡我、我何渡為。 且籍与江東子弟八千人、渡江而西。 今無一人還。 縦江東父兄憐而王我、 我何面目見之。 縦彼不言、籍独不愧於心乎。 」 乃謂亭長曰、 「吾知公長者。 吾騎此馬五歳、所当無敵。 嘗一日行千里。 不忍殺之。 以賜公。 」 乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。 独籍所殺漢軍数百人。 項王身亦被十余創。 顧見漢騎司馬呂馬童。 曰、 「若非吾故人乎。 」 馬童面之、指王翳曰、 「此項王也。 」 項王乃曰、 「吾聞漢購我頭千金・邑万戸。 吾為若徳。 」 乃自刎而死。 是に於いて項王乃ち東のかた烏江を渡らんと欲す。 烏江の亭長、船を檥して待つ。 項王に謂ひて曰はく、 「江東小なりと雖も、地は方千里、 衆は数十万人、亦た王たるに足るなり。 願はくは大王急ぎ渡れ。 今独り臣のみ船有り。 漢軍至るも、以て渡る無し。 項王笑ひて曰はく、 「天の我を亡ぼすに、我何ぞ渡ることを為さん。 且つ籍江東の子弟八千人と、江を渡りて西す。 今一人の還るもの無し。 縦ひ江東の父兄憐れみて我を王とすとも、 我何の面目ありて之に見えん。 縦ひ彼言はずとも、籍独り心に愧ぢざらんや。 乃ち亭長に謂ひて曰はく、 「吾公の長者たるを知る。 吾此の馬に騎すること五歳、当たる所敵無し。 嘗て一日に行くこと千里なり。 之を殺すに忍びず。 以て公に賜はん。 乃ち騎をして皆馬を下りて歩行せしめ、短兵を持して接戦す。 独り籍の殺す所の漢軍、数百人なり。 項王の身も亦十余創を被る。 顧みるに漢の騎司馬呂馬童を見たり。 曰はく、 「若は吾が故人に非ずや。 馬童之に面し、王翳に指して曰はく、 「此れ項王なり。 項王乃ち曰はく、 「吾聞く、漢我が頭を千金・邑万戸に購ふ、と。 吾若の為に徳せしめん。 乃ち自刎して死す。 烏江の亭長は、船を出す用意をして待っていた。 項王にこう言った、 「江東は小さくはありますが、地は千里四方、人口は数十万人、 王となるには十分の大きさです。 大王は急いで渡られてください。 今はわたくし一人だけが船を持っています。 漢軍は、ここに至っても、渡ることができません。 」 項王は笑ってこう言った、 「天が私を滅ぼそうとしているのに、どうして渡河しようか、いやしまい。 しかも、私は江東の子弟8千人と渡河して西進し、 今一人の帰る者も無い。 たとえ江東の父兄が私を憐れんで王にしたとしても、 私は何の面目があって彼らに会えようか、いや、全く面目なく、会えない。 たとえ彼らが何も言わなかったとしても、 私が心に恥じないことがあろうか、いや恥じる。 」 そして、亭長にこう言った、 「私はあなたが高徳の人であることを知っている。 私はこの馬に5年間乗ってきたが、当たる所敵無しであった。 かつて、一日に千里走ったこともあった。 とても殺すには忍びない。 あなたに与えよう。 」 そして、配下の騎兵を下馬させ、白兵戦を挑んだ。 項王は一人で数百人の漢兵を殺した。 項王の身も十余創の傷を受けた。 項王が振り返ると、そこには漢の騎司馬呂馬童がいた。 項王は言った、 「お前は私の旧友ではないか。 」 呂馬童は顔を背け、王翳に指し示して言った、 「項王はここにいるぞ。 」 項王は言った、 「私は聞いている、漢は私の首に千金・一万個の邑を掛けていると。 私はお前に恩恵を施してやろう。 」 そうして、項王は自ら首をはねて死んだ。 烏江亭長、檥船待。 ここにおいてかうわうすなはちひがしのかたうかうをわたらんとほつす。 うかうのていちやう、ふねをぎしてまつ。 項羽は""の垓下から漢軍の包囲を突破して南方へ逃げてきていた。 「亭」は"宿場"であり、秦代には警備の役も担った。 「檥」は"船を出す用意をする"。 かうわうにいひていはく、「かうとうせうなりといへども、ちははうせんり、しゆうはすうじふまんにん、またわうたるにたるなり。 「江東」は江南に同じ。 今独臣有船。 漢軍至、無以渡。 」 ねがはくはだいわういそぎわたれ。 いまひとりしんのみふねあり。 かんぐんいたるも、もつてわたるなし。 「独」は「のみ」と呼応する。 且籍与江東子弟八千人、渡江而西。 今無一人還。 かうわうわらひていはく、「てんのわれをほろぼすに、われなんぞわたることをなさん。 かつせきかうとうのしていはつせんにんと、かうをわたりてにしす。 いまひとりのかへるものなし。 「且」は"そのうえ・また"。 縦彼不言、籍独不愧於心乎。 」 たとひかうとうのふけいあはれみてわれをわうとすとも、われなんのめんぼくありてこれにまみえん。 たとひかれいはずとも、せきひとりこころにはぢざらんや。 「縦 たと-ヒ 」は"たとえ〜であっても"。 「見 まみ-ユ 」は"会う・お目にかかる"。 ここにおける「独」は反語を表す。 「愧」は"恥じる"。 「籍」は項羽の名前である。 「羽」は字。 吾騎此馬五歳、所当無敵。 すなはちていちやうにいひていはく、「われこうのちやうしやたるをしる。 われこのうまにきすることごさい、あたるところてきなし。 「公」は尊敬をこめた呼びかけの語で"あなた"のような意味。 「長者 ちょうしゃ 」は"徳の高い人"。 「歳」は「年」に通じる。 不忍殺之。 以賜公。 」 かつていちにちにゆくことせんりなり。 これをころすにしのびず。 もつてこうにたまはん。 「不忍」は"耐えられない・我慢できない・見逃せない"。 「賜」は"お与えになる"、尊敬表現である。 従ってここは、自尊表現になっている。 独籍所殺漢軍数百人。 項王身亦被十余創。 すなはちきをしてみなうまをくだりてほかうせしめ、たいぺいをじしてせつせんす。 ひとりせきのころすところのかんぐん、すうひやくにんなり。 かうわうのみもまたじふよさうをかうむる。 「令」は使役。 「兵」は戦争関連の事柄を表すが、ここでは"武器"の意である。 「創」は傷を表す。 曰、「若非吾故人乎。 」馬童面之、指王翳曰、「此項王也。 」 かへりみるにかんのきしばりよばどうをみたり。 いはく、「なんぢはわがこじんにあらずや。 ばどうこれにめんし、わうえいにしめしていはく、「これかうわうなり。 「騎司馬」は"騎兵隊長"。 「若 なんぢ 」は"おまえ"。 「故人」は"旧友"、死んだ人ではない。 「非〜」は"〜でない"。 「面」は"顔を背ける"。 吾為若徳。 」乃自刎而死。 かうわうすなはちいはく、「われきく、かんわがかうべをせんきん・いふばんこにあがなふ、と。 われなんぢのためにとくせしめん。 乃ち自刎して死す。 「購」は"懸賞を掛けて求める"。 「邑」は城壁で囲まれた町を表す。 中国古代の町はほとんどこれだった。 ちなみに城壁の外を「郊」という。 「徳」は"恩恵を施す・手柄を立てさせてやる"。 「自刎」は"自殺"。 総括 から漢の大群を少数精鋭で破りながら烏江まで逃げてきた項羽だったが、 やはり故郷に至り、ともに出発した8千人が皆死んでしまったことに思うところがあったのだろう。 ここで項羽は逃亡をあきらめた。 もともと項羽は敗れたことがなかった。 劉邦が何度も敗れ、逃亡してはまた復活を繰り返したのとは対照的である。

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